■ニューヨーク 起業、仕事、走る日々/1996〜2001)■


渡米して数カ月後、知人の紹介で、ミッドタウンにある日系出版社の社長と会う機会があった。わたしは、彼の会社で発行しているフリーペーパーに何か記事を書かせてもらいたいと思っていた。一年間の滞在予定だったので、あくまでもフリーランスの立場で仕事ができればと思っていたわたしに、彼は思いがけない提案をした。


「うちの会社に入って、雑誌の広告営業をしませんか? いろんな企業を回って、広告を取ってくる仕事です。今、スタッフが足りないんですよ。もちろん、就労ヴィザもスポンサーしますよ」


できるだけ長くニューヨークに住みたいと感じ始めてはいたけれど、かといって就職することは考えていなかった。第一、自分自身が会社という組織の中で働くよりも独立している方が性に合うと悟り、あえてフリーランスになったのだ。いくら就労ヴィザをスポンサーしてもらえるからといって、会社員に戻ることには抵抗がある。突然の申し出に、やや困惑しているわたしに彼は続けた。


「サカタさん。うちで働くということは、アメリカを相手に仕事をするということなんですよ」


そのひとことは、わたしの心を大きく揺さぶった。(アメリカを相手に仕事をする)という言葉に、得も言われぬスケールの大きさを感じ、激しく血が騒いだのだ。


「一週間、考えさせてください」


そう言って社長とは別れたものの、すでに気持ちは決まっていた。会社員になることには抵抗があったけれど、いずれにしても米国で働くには就労ヴィザが必要だから、フリーランスにはなれない。もしも本気でこの街に長期間滞在することを考えれば、これは妥当な第一歩だと思われた。


結局その社長には、一年以内に辞める可能性を示唆した上で、入社する意志があることを伝えた。それから移民法弁護士を通して、期限付き就労ヴィザの取得手続きをし、数カ月後には、ニューヨークで会社員となった。語学学校に通ったのは4カ月間だけだった。


毎月、売上げの目標額を設定し、主に在米日系企業と交渉し、広告出稿を依頼する。これまでにやったことのない仕事だけに戸惑いも多かったが、一方で、多くの人々に出会う機会を得られたのは幸運だった。たとえ大手企業でも、ニューヨーク事務所となれば小規模だから、自ずと重役クラスの人たちと打ち合わせをすることになる。日本であれば、アポイントメントを取り付けるのにも時間がかかるところが、こちらでは直接本人と交渉できるので話が早い。


勤務している会社も、取引している会社も日系企業だが、米国を拠点としている以上は米国のやり方でビジネスを進める場合が多い。そのさじ加減は各会社ごとに微妙で、対応に頭を悩ませることも少なくなかった。しかし「はじめに契約ありき」が常識で、日本のように条件を曖昧にしたまま仕事を進めることがない米国流のビジネスは、非常に合理的で、感銘を受けることが多かった。


バブル経済が崩壊し、数多くの日系企業が撤退するばかりの趨勢だったが、それでも、相当数の日系企業があり、8割方、日本語だけで仕事ができる環境があることはまた、驚きだった。


やがて働き始めて半年が過ぎ、帰国予定の一年後が近づいたが、最早東京で、以前と同じような仕事をする気持ちは失われていた。それに、すでに一緒に暮らしていたアルヴィンドとも別れたくなかった。一年ぶりに一時帰国し、トランクルームに預けていた家財道具を処分し、再びニューヨークに戻ってきた。


しかし、ニューヨークでの仕事に、わたしは満足してなかった。あくまでも営業職は一時的なもので、本業ではない。しかも現地採用者の給料は、この会社に限らず非常に安いから、近い将来、貯金も尽きる。フリーランスになって手当たり次第、仕事をしたいところだが、かといって就労ヴィザがなければ米国で働くことはできない。葛藤する日々が続いた。


そんなある日のこと。営業で小さな日系の会社を訪れた。数年前、夫婦一緒に渡米し、エンターテインメント機器販売の会社を起業し、着実に業績を上げている会社だ。彼らは20代の、とても気さくなカップルだった。そんな二人と話していたとき、わたしはごく軽い気持ちで尋ねた。


「ニューヨークで会社を作って軌道に乗せるなんて、本当にすごいですね。会社を作るって、たいへんなことでしょう?」


すると妻の方がにこやかにこう言ったのだ。


「そうでもないのよ。会社を作ること自体は、全然難しくないの。お金もそんなに必要ないし。起業した後に運営していくのは難しいけどね」


(会社を作ること自体は、全然難しくないの。お金もそんなに必要ないし……)


彼らのオフィスを出て街を歩いている間、彼女の言葉が、繰り返し繰り返し、脳裏に浮かんでは消えた。今まで会社を作ることなど考えもしなかったから、当然調べたこともなかったのだが、彼女の言うことがもし本当なら……。


ニューヨークにはこれだけたくさんの日系企業がある。彼らだけを対象に仕事をしたとしても、わたし一人が生活するだけの収入を得る手段はあるに違いない。日本で培ってきた出版や広告のキャリアを何とか生かして、わたしにも仕事をする方法があるのではないだろうか。


帰宅途中、ロックフェラーセンターにある紀伊國屋書店に立ち寄り、米国で起業するにあたっての資料を買い求める。家に帰り、ひと通り目を通した後、わたしは一つの決意をした。


(自分で会社を作ろう。その会社をスポンサーにして、自分自身に就労ヴィザを出そう)


つまり、就労ヴィザの自給自足である。本当にそんなことができるだろうか。もしも簡単にできれば、大勢の人たちがやっているはずだ。よくわからないが、まずは動き出してみるしかないだろう。


その翌日から、わたしのアフターファイブは移民法弁護士や会計士との電話相談にあてられた。日系のビジネスリストを開き、手当たり次第、連絡する。事情を話すと、相談に行くまでもなく電話口で「無理ですね」と言われるケースが多かったが、中には可能性を示唆してくれる人もいた。


弁護士や会計士に会い、情報を集める日々が続いた。悪質な弁護士に引っかかって無駄なお金を払ったこともあった。その過程は書きあげればきりがないほど、ストレスの多いものだったが、一旦始めた以上は引き返せなかった。米国人と結婚して、あるいは毎年行われる抽選に当選して永住権を取得しない限り、この方法以外でわたしがニューヨークで独立することはできないのだ。


英文での資料作りなどは、アルヴィンドの助けを借りた。会社名は「ミューズ・パブリッシング(出版)」とした。アルヴィンドと二人であれこれと考えているときに彼が口にした単語の一つで、わたしがそれを選んだ。


ミューズとは、ギリシャ神話に登場する、音楽や詩、美術などの芸術を司る女神たちの総称だ。


その年の暮れ、試行錯誤の末に、わたしは自分の会社をスポンサーに就労ヴィザを獲得することに成功した。ついにニューヨークで独立するための基盤を作ることができたのだ。弁護士からヴィザが下りたとの電話が入ったときは、余りのうれしさに興奮した。


直後、勤めていた日系出版社を辞め、新しい年が明けるのを機に、わたしは自ら設立したミューズ・パブリッシングの社員として、新たな一歩を踏み出した。1998年1月。渡米してから一年半が過ぎていた。


就労ヴィザを持っているということは、ヴィザ発給と同時に労働局から条件付けられている「最低賃金」を、自らに支払わなければならない。外国人に雇用機会を与える場合、米国人の職を奪うことになってはならないから、労働局から企業側に最低賃金を示す通達が送られるのだ。


ニューヨーク州の場合、給与の約3分の1は税金となる。その出費は当時のわたしに極めて大きかった。しかし、就労ヴィザがなくては米国で働くどころか滞在することさえできないのだから、ぐずぐず言ってはいられない。とにかく仕事を見つけて、収入を得ることが先決だった。


最初の一年は、まさに綱渡りのような日々だった。いくら社員は自分一人だとはいえ、仕事を始めるための準備はそれなりに必要だ。コンピュータやプリンタ、ファックスなどのオフィス機器を購入したり、電話回線を新たに引いたり、文房具類をそろえたり、会社案内を作ったりしているうちに、あっというまに貯金は尽きていった。最初の数カ月は、銀行の預金残高を見るたびに底知れぬ不安に襲われ、心臓が締め付けられるような気持ちになった。


ライター業だけでは収入がとても追いつかないから、広告代理店業務や印刷物の制作、日本の雑誌の取材やコーディネーション、リサーチなど、自分ができそうなことは何でも請け負った。仕事の傍ら、コンピュータによるグラフィックデザインのスキルも身につけ、シンプルな印刷物は自分でデザインもこなすようになった。


そんなある日のこと。夕暮れ時、わたしは営業用の資料を作る手を休め、アパートメントの窓の外に広がる光景を見ていた。夕映えを受けて輝く摩天楼を眺めているとき、ふと、ずっと思い出すことのなかった、映画のラストシーンが鮮明に蘇ってきた。


「あなたのデスクは向こうよ」


その女性が指さしたのは、眼下にウォールストリートを見渡せるプライベートオフィスだった。


「えっ、まさか。違うわよ」


「本当よ。あの部屋の中にあるのが、あなたのデスク」

 

驚きと戸惑いと、そして喜びの入り交じった表情で、彼女はゆっくりとそのオフィスに入った。椅子に座り、受話器を取って、電話をかける。


「……ねえ、今わたし、どこにいると思う?」


笑顔で話し始める彼女。電話の向こうで狂喜するベストフレンド。『レット・ザ・リバーラン』のメロディーが流れ出す。


次の瞬間、カメラの視点は、オフィスビルの外に移り、電話する彼女の姿を窓越しに捉える。カメラはどんどんズームアウトし、やがてマンハッタンの摩天楼を画面いっぱいに映し出す……。


大手企業の秘書だった女性が、幾多の努力と波乱の末、ウォールストリートの企業にポジションを得、念願だった自分のオフィスを獲得するに至るまでを描いた映画『ワーキング・ガール』のラストシーンだ。


24歳の冬。ボーイフレンドに振られたばかりのわたしは、狭苦しいアパートで、ひとり、このビデオを見ていた。仕事に追われる日々の息抜きは、週末にビデオを借りて観ることだったのだ。


わたしは、摩天楼が映し出されるそのラストシーンを、何度も何度も巻き戻しては、繰り返し見た。『レット・ザ・リバーラン』のメロディーと、マンハッタンの摩天楼が、わたしの心を激しく掻き立てた。表現しがたい熱情が、身体の奥の方からこみ上げて来、涙が止まらなかった。


(わたしもいつかキャリアをつけて、あんな風に仕事がしたい! 自分のオフィスを持ちたい!)


そう強く感じる一方で、冷静なわたしが言う。 


(あのオフィス環境は、アメリカだからこそのもの。日本じゃ、個人のオフィスを持つなんて、企業の重役でもない限り無理だ。第一、わたしは英語もろくにしゃべれない。わたしのバックグラウンドで海外で働くなんて不可能よ。そもそもわたしはニューヨークになんて、興味ないんだし……)


そんな冷静な自分の声とは裏腹に、しかし心の隅で、夢を実現する主人公の姿に、自分の未来を重ねていた。


あれから8年。ここは、あの映画の舞台となったウォールストリートではなくアッパーウエストサイドだ。そしてわたしは大企業に勤務しているわけではなく、社員一名の個人経営だ。しかもここをオフィスだと言い張ってはいるが、実は自宅兼用だ。厳密に言えばあれこれと違いはあるが、大ざっぱに考えれば、今のわたしは、かなりあの日の主人公の状況に近いのではないか。更に言えば、あの時、彼女は30歳だった。わたしは今、32歳。年齢も、同じようなものではないか。


そう思うと、胸の奥から言いしれぬ喜びと興奮が沸き起こってきた。それまで何百部もの営業用資料を黙々と作りながら(果たして仕事はとれるのだろうか……)と、先行きを案じていたその気持ちが1転し、夕映えが希望の光に見えてきた。


その翌日、わたしは近所のタワーレコードへ行き、『レット・ザ・リバーラン』のCDを買った。以来、仕事に行き詰まったり、不安に駆られるたび、このCDを聴いては、気持ちを奮い立たせた。


独立以来、半年を過ぎたころから、会社は徐々に売上げを伸ばした。翌年には、自分の会社から『ミューズ・ミューヨーク』という、ニューヨーク在住の日本人を対象としたフリーペーパーを発行する余裕も出てきた。旅行やエンターテインメント、異文化交流などを掲載した情報誌で、発行部数は一万部。フリーペーパーとして配布しつつ、徐々に広告収入を得る予定でスタートした。たとえ3カ月に一度とはいえ、最初のうちは売上げの利益を制作費に充てる、いわば「社費出版」だから、予算の都合上、制作を外注に任せるわけにはいかない。従って企画に始まり、取材、執筆、デザイン、印刷、そして配達に至るまでを、基本的に自分やることを条件に、自らに発行することの「許可」を与えた。


インタビューや取材は主に昼間の仕事の合間を縫って、執筆やデザインなどの仕事は夜、仕事を終えてからやる。編集や執筆の仕事というのは、そもそも公私の境目がつけにくい仕事だったのが、その状況にいよいよ拍車がかかった。長期休暇で訪れた旅行先は巻頭の「海外旅行特集」になり、週末、近郊へ出掛けるドライブ旅行は「ニューヨーク発週末旅行」の記事となった。ホリデーだというのにカメラを肌身離さず、観光情報の収集に余念がないわたしに、同行していたアルヴィンドは呆れていたが、やがてはそんな状況にも慣れ、手伝ってくれるようにもなった。公私混同の日々ながら、それはそれで楽しんでやっていた。 


しかし、配達の作業には、毎回うんざりさせられた。20歳のとき、日本で免許を取って以来、わたしは長らくペーパードライバーだった。ところが渡米し、日本の出版社からドライブ取材を依頼されたのを機に一念発起して、こちらで講習を受け直し、運転免許を取り直したばかりの、いわば「初心者」だった。ニューヨークなど都市部を除いては、基本的にアメリカは自動車社会だ。自動車なくしては買い物にも、子供の学校の送り迎えにも行けない。逆に自動車があれば、行動の範囲は格段に広がる。広大なアメリカ大陸にはドライブ旅行をするにも楽しいところが無尽蔵にあり、だからたとえマンハッタンに住んでいても、運転免許を持っているに越したことはないのである。


『ミューズ・ニューヨーク』は薄い冊子だったが、一万部となると段ボール箱に約20箱分となる。それらを二日に分けて配達する。日系の食料品店や書店、レストラン、美容室などの、店頭の空いたスペースに置かせてもらうのだ。一日はマンハッタン内、もう一日はお隣のニュージャージー州やコネチカット州など、日本人の駐在員家族が住む郊外の町に出て配達をする。


郊外の配達では、道に迷ってぐるぐると同じところを回ったり、ハイウェイを降り損ねて見知らぬ田舎町にたどりついたりと、いろいろ問題は尽きなかったが、それでも土地が広い分駐車場もあるし、のんびりとドライブ気分で配達ができる。


一方、マンハッタンでの配達は、スリリングなゲームだ。マンハッタンの道路は一部を除いて碁盤の目のように構成されているから、地理を把握しやすく道に迷うことはない。しかし問題は一方通行の多さ、交通量の多さに加え、人々の運転の荒っぽさだった。


我が物顔で道路を占拠するイエローキャブ。方向指示器の存在もほとんど意味がない。左折、右折しようにも、なかなか車線変更ができず、おどおどしているうちにタイミングを逸して遠く遠くへ行ってしまい、目的地から大きく逸れてしまうこともしばしばだ。ようやく曲がれたかと思えば、今度は届け先の店舗の前の路肩に車を停める余地がない。仕方なく二重駐車し、警告灯をカチカチ照らしながら大急ぎでトランクを開け、冊子をひとかかえ、駆け足で行って戻ってくる。


敵はイエローキャブばかりではない。最も恐ろしいのは歩行者だ。ニューヨーカーは一般に、信号を見ず、道路を見る。車の流れが止まった瞬間、WALKだろうがDON’T WALKだろうが、お構いなしに歩き出す。ひとりが歩き出すと周囲も一斉に歩き始める。車中からは、人々が車に向かって突き進んで来るように見える。こちらが信号が青だからと進もうとしても、最早身動きが取れない。しかしわたしも歩行者の立場になれば同じ行動を取っているので、あまり文句は言えない。せいぜい、「こっちは青なんだから通らせてくれ!」とばかりにホーンを盛大に鳴らすくらいである。


何かとストレスたっぷりの配達だが、それでも日が長い夏の間は汗を流しながらの肉体労働で、それなりに充足感もあり(がんばってるぜ!)という気分にさせられるからいい。問題は日没の早い冬だ。5時ごろにはすでにあたりは夕闇に包まれ始め、夕方のラッシュが始まり、しかしトランクには未開封の段ボールがまだいくつも残っている。そんなとき、無性に心細くなる。


(わたしはどうして、こんなところでこんなことをしているんだろう。これが本当にわたしのやりたいことなのか? 配達くらい業者に頼めばいいんじゃないか? いや、しかし業者には部数の配分なんかの微妙な塩梅がわからない。それに店の人に挨拶だってしなきゃならない。やっぱり自分でするべきなんだ。でも、それにしても、ああ、なんて面倒臭いんだ!)


店の人への挨拶といっても、ただ、


「今回も置かせていただきます。よろしくお願いします!」


と声をかけるだけだ。それでも業者が無言で放置して行くよりはいいだろう。店によっては、板前さんや従業員が


「そこに置いておいて! あとで並べとくから」とか、


「おっ、ご苦労さん!」などと、声をかけてくれるところもある。その一言がうれしかったりもする。そして空になった段ボールを一箱、二箱とつぶすたび、小さな達成感を覚えるのだ。


「会社を起業した」とはいえ、格好いいことは何もない。主には体力、精神力勝負の、かように試行錯誤を繰り返すばかりの毎日だった。ともあれ、自分がニューヨークで自立できているという事実は、そのことを自覚するにつけ、鳥肌が立つような喜びを感じさせた。


一方、ボストンのマサチューセッツ工科大学(MIT)を卒業後、マンハッタンに本社を置く大手コンサルティング会社に勤務していたアルヴィンドは、一緒に暮らし始めてから一年半後、更なるキャリアを構築するため、フィラデルフィアのビジネススクール(MBA)に通うことになった。


彼の引っ越しに伴い、わたしはそれまで住んでいたアパートメントと同じビル内にある、狭い部屋に移った。狭い部屋とはいえ家賃は高く、毎月2000ドルの家賃を払い、自分に給料を払い、仕事を運営し続けるのはたやすいことではなかった。


アルヴィンドが在学中の二年間は、お互いが週末通い合う日々が続いた。休暇のたびに、欧州やカリブ海などへ旅行するのが楽しみだった。わたしたちは、食べ物の嗜好が非常に似ている上、旅先で訪れたいと思う場所が近いこともあり、一緒に巡るのは楽しかった。1998年の冬には、アルヴィンドも初めて日本の土を踏んだ。東京を起点に、富士山や京都、そしてわたしの故郷である福岡を訪れた。


東京では、銀座のホテルに滞在していたこともあり、すでにガイドブックで下調べをしていたアルヴィンドは「築地市場に行きたい」と早朝より起床。活気あふれる市場の中を探検した。渋谷や新宿では、細くて小柄で身ぎれいな女の子たちに目が釘付けになっていた。


河口湖の温泉旅館では、彼も生まれて初めて温泉に挑戦した。人気の少ない午後3時頃、男湯に誰もいないのを確認して、わたしも共に男湯に潜入。彼に脱衣籠の使い方やシャワーの使用方法、湯船に浸かるときの心得(あらかじめ、身体をあらってから。タオルは湯につけない、長風呂しすぎない、等々)を伝授する。河口湖のむこうにそびえる富士山の美しい姿を広い窓越しに眺めつつ、彼は温泉をすっかり気に入ったようで、朝な夕なに入浴を楽しんだ。


彼が最も気に入ったのは、京都だった。異邦人が想像するところの、伝統的な日本な要素が鏤められた街である、ということもあるが、そもそもは仏教の国であったインドから京都に伝来した物の数々が彼の目をひきつけた。ことに、三十三間堂におさめられているインドの神々の姿は、彼にとって非常に印象的だったようだ。京都では大晦日と元旦を過ごし、ホテルで獅子舞を見たり餅つきを体験したりした。金閣寺では茶室でお抹茶と菓子を味わったりと、彼にとっては何もかもが初めてで、興味深い出来事だった。ただ、英語が通じる場所が限られており、どこへ行くにもわたしの「金魚のふん」のような状態でなければならないのが不満そうではあった。


福岡では、わたしの家族にも初めて対面した。言葉が通じないものの、彼は日本料理も大好きなので、食を通してのコミュニケーションは十分に図れた。「オイシソウ!」「イタダキマス!」「オイシイ!」「オイシカッタ!」「ゴチソウサマ!」と、知る限りの日本語を駆使しながら、両親が用意しておいてくれた食事を大喜びで食べた。


さて、ビジネススクールに通い始めた当初、アルヴィンドは卒業後、ニューヨークに戻ってくる予定でいた。だから、就職活動の際には、マンハッタンにオフィスのある会社をいくつかあたったのだが、第一志望の会社は、フィラデルフィアよりもさらに南の、ワシントンDCの郊外にあった。ニューヨークからフィラデルフィアまでは、アムトラックと呼ばれる長距離列車で1時間程度だったが、DCまでは3時間以上かかる。


遠距離での付き合いは、互いの負担を増やすことになるとわかっていたが、わたしは彼に、キャリアを構築する上で、一番だと思える会社で仕事をしてほしかった。まずは仕事の基盤を固めてから、未来を設計すべきだと思ったのだ。同時にわたし自身もニューヨークでの仕事を続けていくつもりだった。


一方、アルヴィンドは、すでに遠距離で付き合い続けることに疲れていたこともあり、わたしにDCへ引っ越さないかと、ことあるごとに持ちかけるようになった。しかしそれはわたしにとって問題外だった。わたしはニューヨークが好きで米国に住んでいるのであり、米国の他の地には、関心がなかったからだ。米国のイチ都市であるにも関わらず、ニューヨークは米国のどの都市にもない、激しい混沌があり、強いエネルギーにがある。わたしはそのただ中にいたいのだ。


最終的に、彼はDC郊外のヴェンチャーキャピタル会社に就職を決めた。再び、二都市を行き来する暮らしが始まった。


将来もずっと一緒にいたいと言う気持ちは、お互いにあった。はずだ。しかし、具体的に「結婚」についてを話し合うことは、互いに避けていた。「一緒に住みたい」と言いつつも、アルヴィンドが、まだ結婚を望んでいないことは、様子を見ていれば察せられることだったし、わたしもまた、ニューヨークにおける自分のポジションを確立することに一生懸命だったから、結婚を急ぐことはないだろうという気持ちもあった。しかし、だからといって、延々とボーイフレンド、ガールフレンドのままでい続けることも、決して理想的だとは思っていなかった。そう遠くない将来、彼と結婚することになるだろうと思っていた。


時は流れ、2000年が幕を閉じようとするころ。わたしとアルヴィンドは冬の休暇を過ごすため、フロリダに来ていた。


わたしは心のどこかで、このクリスマスには、きっと彼はわたしにプロポーズするだろう、と踏んでいた。つきあい始めて4年半。出会った当時23歳だった彼も、すでに29歳になろうとしている。ビジネススクールを卒業して半年、生活も落ち着きはじめている。過ぎるほどに機は熟していると思われた。


ところが、クリスマスイブの夜も、クリスマスの夜も、いつも通り「乾杯!」に始まり「おいしかったね」で締めくくり、何事も起こらなかった。


(じゃあ、大晦日か新年か?)


と予想を修正したが、やはり何事もなく過ぎた。このタイミングを逃しては、プロポーズにふさわしいチャンスが当分ないではないか! 


旅行から帰ってきたわたしは、何かしら、いらだっていた。どこかしら不機嫌だった。そして年明け早々のある朝、わたしはとうとう口火を切った。


「ねえ、あなたはわたしたちのこれからのこと、どう考えてる?」


「どうって?」


「わかってるでしょ? 何がいいたいか」


アルヴィンドは苦虫をかみつぶしたかのような、いかにも戸惑った表情を見せた。そしてゆっくりと、こう言った。


「僕は、まだ若いし……。まだ、ビジネススクールを出てから一年も経ってないし……。まだ、結婚のことは考えられないんだ」


「あ、あなたってば……この期に及んでまだ結婚は考えられないっていうの? 5年近くも付き合っておいて、どういうこと? 若い若いっていうけど、今年で29歳でしょ? 7歳の年の差は一生埋まらないんだから、毎度毎度、僕は若いって言わないでくれる? あなたの父さんは、アルヴィンドは寂しがりやだから、できるだけDCに行ってやってくれ、なんてわたしに頼むけどね、わたしは単なるガールフレンドよ! なのに毎月、十日近くもニューヨークを離れて、しかも交通費だってすごい出費で、通い妻みたいなことやって、それが、どれだけたいへんなことかわかってるの?」


堰を切ったようにまくし立てるわたしに、少々たじろきながらも、彼は自分の言い分を主張する。


「僕のことを大切に思うなら、DCに来てくれるのは当たり前でしょ。僕だって、ニューヨークには行ってるんだし……。それに、まずは結婚するよりも先に、ミホがニューヨークを離れてDCに来て、一緒に暮らしはじめてから、結婚を考える方がいいと思う……」


「どうしてわたしが、ボーイフレンドのためにDCくんだりまで引っ越さなきゃならないの? それなら結婚が先でしょ。それから次のステップを考えるっていうもんでしょ?」


「でも、結婚したあとも、ミホがニューヨークにずっといたら、結婚した意味がないし……」


「じゃあ聞くけど、あなたは、いったい、これから先、どうしたいわけ?」


煮え切らない態度のアルヴィンドに憤りながら、しかしわたしは自分にも同じ質問を投げかけていた。


(じゃあ、わたしはいったい、これから先、どうしたいわけ?)


結婚はしたいが、ワシントンDCに移るのはいやだ。当面は、今まで通りに行き来することになるだろう。だとしたら、いったい、結婚したことによって、何が変わるのか? 安心? 精神的な保険? いざというときのバックアップ?


勢いよく相手に詰め寄っているわりに、自分でもどうしたいのかがよくわからなかった。どうしても子供が欲しいとか、グリーンカードのために、といった結婚によって明らかに享受できるものを望んでいるのならまだしも、そのどちらでもないことは確かだった。


ただ、よくわからないが、しかし「今年は結婚するのだ。絶対にせねばならぬのだ」という確信があった。わたしは今年で36歳だ。いわゆるこれは、少々遅れて来た「結婚に焦っている女」なのだろうか。


その後、わたしたちは話し合いを重ねた。彼がまだ独身でいたい気持ちはよくわかる。しかし、わたしが7歳年上だということは、不動の事実である。彼の言うとおり「いつかは結婚したい」の「いつか」を「いつまでも」待っている気にはならない。このままじゃ、あっという間に40、50だ。


すったもんだの挙げ句に、わたしたちはついにこの年、結婚することに決めたのだった。まずは結婚してから、わたしがDCに移るかどうかなど、次のステップを考えるということで結論が出た。つまりはわたしが、自分の言い分を押し通した形になった。


結婚。ロマンティックなプロポーズもなく、押し切り、なし崩しで決まった結婚。少々の苦みが残るが、つべこべ言っている場合ではない。結婚すると決まったら、時期場所その他、考えなければならないことはたくさんあるのだ。


時期は、彼がまとまった休暇を取れる夏、7月に決めた。7月までにはまだ数カ月あるから、これから準備をしても十分時間がある。彼の実家はインドのニューデリーで、わたしの実家は日本の福岡。どちらかで大々的に式を挙げるのは現実的でない気がした。とりあえず米国で、婚姻の手続きをすることは決めたが、家族を招いての結婚式はどこで行うのがいいだろう。


日印双方からの地理的距離を考えるに、ニューヨークが中間地点で最も便利だ。しかしニューヨークだと、せっかくの夏の休暇だというのに、わたしたちは海外に出かけられないままで終わってしまう。


「ハワイにしようよ」と、アルヴィンドが言った。ハワイも米国内に違いはないが、海はきれいだし、式をすませればあとはリゾート気分に浸れるし、いいかもしれない。

 

さっそく翌日、わたしは仕事もそこそこに、インターネットでハワイの結婚式場情報を収集した。「ヴァージンロードが35メートルある海に面した白い教会」とか、「ステンドグラスが美しい石造りの教会」など、数ある教会のなかから気に入ったところをいくつかピックアップしてプリントアウトし、夕食ののち、アルヴィンドに提示した。


「ねえ、いろいろな教会があるんだけどさ、どうしようか。わたしははオアフ島じゃなくてハワイ島かマウイ島がいいと思ってるんだけど」


「教会? 教会ってどういうこと? ミホ……。ミホは仏教徒で、僕はヒンドゥー教徒だよね。なのにどうしてキリスト教のスタイルで結婚式するの?」


「へ? 何言ってるの? 自分が最初に、ハワイがいいって言ったんじゃないの」


「だからさあ、ハワイにヒンドゥー教の寺院はないのかなあ」


「ハワイにヒンドゥー寺院があるわけないでしょ! いやひょっとしたらあるかもしれないけどさ。たとえあったとしても、ハワイでインド式の結婚式なんて、そんなへんてこなこと、やだからね。わたしは白いウエディングドレスを着るのが、子供のころからの憧れだったのよ!」


「仏教徒とヒンドゥー教徒がキリスト教会で結婚する方がよっぽどへんだよ!」


「ヒンドゥー教ヒンドゥー教って、さっきから急に信心深いヒンドゥー教徒ぶってるけど、あなた、牛肉ジャンジャン食べてるじゃない。牛の神様、怒ってるよ!」


「ともかく、僕は白いタキシードなんて着ないからね! そんなにウエディングドレスが着たいなら、一人で着ればいいでしょ?」


「あ、そう。わかったわよ。ウエディングドレスへの憧れは捨てますよ。オーケー、オーケー。でもね、あなたがどうしてもヒンドゥー式と言い張るなら、インドで結婚式するしかないじゃない」 


「そうだね。その通りだよ! そうだよ。やっぱりインドで結婚式をしようよ! ミホはインドに行ったことないし、いい機会じゃない」


世の中、そう何でも自分の願い通りに事が運ぶわけではない。ウエディングドレスに未練がないわけではないが、赤やオレンジのきらびやかなサリーを着るというのも面白そうだ。日本とインドのバランスが取れないのが気になるが、この際、仕方ない。インドにしよう。


「ところでさ。7月のインドの気候って、どうなの?」


「7月は暑いよ〜。しかもモンスーン(雨期)の時期だから、すごく蒸し暑いと思う。気温そのものは5月とか6月の方が高いけど、乾期だから、むしろ凌ぎやすいんだよ」


「そうか、暑いのか。でもわたし、暑いのは苦手じゃないから、なんとかなるでしょ。それに建物の中は冷房が入ってるでしょ。大丈夫よね」


夏じゃなくて、秋か冬にしようか、とアルヴィンドが言ったけれど、わたしはどうしても、夏のうちに結婚をしておきたかった。秋以降だと、何だか遅すぎる気がしたのだ。


まずは彼がニューデリーの父親ロメイシュに電話をいれた。彼の実母は8年前に他界しており、ロメイシュは再婚者ウマと、母親のダディマ(アルヴィンドの祖母)と3人で暮らしていた。アルヴィンドが結婚するとの旨を彼に告げると、電話の向こうで「コングラチュレーションズ!」と言うロメイシュの喜びに満ちあふれた声が聞こえた。


アルヴィンドがニューデリーで結婚式をするつもりだと告げると、さらに感激を深くしている様子だった。「多分、ミホだけが行くことになるから」とアルヴィンドは言い、「だから、あまり大げさにしないでね」と言葉をつないだ。


わたしの家族、特に両親がインドに来ることはないだろうと思ったのには、二つの理由があった。一つ目はその一年前、わたしの父ヤスヒロが肺がんを患い、半年ほど抗がん剤による治療のため入院していたのだ。当初は末期だと告知されたにもかかわらず、抗がん剤投与と並行してさまざまに試みた民間療法も功を奏したのか、肺の大半を覆っていたがんはみるみるうちに小さくなり、ひとまずの元気を取り戻していた。とはいえ、退院してから一年足らずで、まだ体力も十分回復していない時期に、混沌としているに違いない、しかも一年で最も蒸し暑い時期のニューデリーに彼を招待するつもりはなかった。そもそもヤスヒロは極度の暑がりなのだ。


もう一つの理由は母サチコである。いまだかつて欧州大陸に足を踏み入れたことがないにもかかわらず、幼少時から「わたしは欧州王侯貴族の生まれ変わり」と信じて疑わなかったサチコ。インテリア、ファッションその他、さまざまな場面において、欧州のエスプリを意識したライフスタイルを好むサチコは、汚いところが極度に苦手だ。そんな彼女が、どう考えてもきれいだと思えないニューデリーに行きたがるとは到底思えない。とにかく日本の両親に無理をいうつもりは最初から毛頭なく、ただ妹夫婦が「来たい」といってくれれば、来てもらおうと思っていた。

 

本来ならば、アルヴィンドが日本の家族に「結婚申し込み」の挨拶をするのが筋だが、言語上に問題があるため、わたしが電話で結婚の報告をすることにした。すでに5年も付き合っている間柄だから、家族の方も「そろそろ結婚するだろう」いや「早いところ結婚すればいいのに」と思っているに違いなかった。


アルヴィンドがインドへ電話をした直後、わたしも日本へ電話をした。電話にはサチコが出た。(電話で気軽に報告するのは悪いけれど……)と前置きをして、アルヴィンドとようやく結婚することが決まったと告げた。婚姻の手続きそのものは米国で、式はインドで挙げる旨も伝えた。わたしはまだインドに行ったことがないから、これを機に彼の祖国を見たいのだと言い添えた。


サチコは結婚の知らせを心から喜んだ。しかし(インドで式をする)と言ったときには、


「えっ? ニューヨークでやらないの?」


と少々意外そうであった。いや、不満そうであった。ニューヨークが好きな彼女としては、ニューデリーよりもニューヨークに行きたいというのが正直なところだったようだ。


「お母さん、心配しないで。ニューデリーに来てくれなんて言わないから。取りあえず今回は、わたし一人で行くよ。日本には、改めて冬にでも行くようにするから」


「そうね。ま、いずれにしても、本当におめでとう。お父さんには、今夜、伝えておくわね」


翌朝、ずいぶん早い時刻に電話が鳴った。寝ぼけ眼で受話器を取る。


「ミホ! 結婚、おめでとう!」


はつらつとした声……。父、ヤスヒロだ。


「あぁ、お父さん。ありがとう」


「結婚式にはぜひ出席させてもらいますからね!」


(え、ええ〜っ!)


一瞬で目が覚める。「お、お父さん! いや、あの〜、本当はアルヴィンドがちゃんと挨拶するべきなんだけどさ、言葉が通じないし、勝手にあれこれ決めて悪いなとは思ったんだけど。わたしが取りあえずインドに行って、軽く結婚式してくるから、お父さん無理しないで。日本へは改めて帰るし。だいたい向こうは暑いし、お父さん、暑いの苦手でしょ。ニューデリーの夏は無茶苦茶暑いらしいよ」


「サチコが何て言ったか知らんけどね、親が娘の結婚式に出らんでどうしますか。ミホに寂しい思いはさせられんからね。僕はどこへでも行くよ。インドでも地の果てでも、どこへでも、這ってでも行きますからね!」


父の勢い余る気持ちはわかるが、「インド」と「地の果て」を並べたら、インド人が気を悪くするというものだ。第一、這ってこられても困る。父の一言はうれしかったと同時に、予想外だった。両親がインドに来る。わたしすら行ったことのないインドに。しかも旅行じゃない、結婚式だ。旅慣れてない二人が来る。二人が来るとなればもちろん妹夫婦も来ることになるだろう。


(こりゃあ、たいへんなことになったぞ……。)


その日からわたしにとって、「インドで結婚式を挙げる」ということよりも「インドに日本の家族が来る」ことが最大の懸案となった。


思えば、わたしはヤスヒロの病気のことばかりが頭にあって、彼の恋愛に対する欧米的熱情傾向のことをすっかり忘れていた。ヤスヒロは戦前生まれの日本人にも関わらず、「愛してるよ」とか「君が世界で一番大切」などといった、歯の浮くような台詞を臆面なく妻サチコに告げることで、家庭内では有名だった。子供の前で母に接吻をすることも珍しくなく、だからわたしや妹のアユミは、それが普通のことだろうとすら思っていた。


わたしが大学卒業を間近に控えていたころ、こんなことがあった。わたしは東京での就職を考えていたのだが、ヤスヒロはわたしが福岡を離れることを反対していた。


あるとき、何度目かの家族会議が開かれ、またしてもわたしが「東京に行かせてくれ」と訴える状況にあった。


「なんでそんなに東京がいいのか?」と、ヤスヒロが問う。


「東京は日本の中心だし、いろいろな美術館とか、エンターテインメントとかあるし、刺激もあるし、それに出版社は東京に集中してるし……。それに、ダイスケもいるから、心強いし……」


「ミホ。僕はね。ミホが仕事のために東京に出るというのなら許さんよ。ミホはDくんがいるから、東京に行きたいんでしょうが。それならそうと、はっきり言いなさい。僕はね、ミホがDくんとの愛を貫くためだったら、東京に出ることを許すよ」


(へっ? お父さん、今、何て言った? 愛を貫く、ため……?)


猛烈な笑いが怒濤のように込み上げてくるが、ここで笑っちゃおしまいだ。ちらりと脇をみれば、母も妹も、顔を歪ませ、ものすごく変な表情をしている。笑いをこらえるのに必死なのだ。


つまりわたしは、Dとの愛を貫くという名目のもとに上京したのだ。その数年後、わたしがDに振られ、意気消沈していたときも、ヤスヒロは前述の台詞にかかる言葉を口にした。


「ミホ、愛を貫くために東京に出たのだから、愛に破れたら、福岡に帰ってきなさい」


ロマンチストなのか完全なる男尊女卑なのか、理解の域を超える父の心理であったが、娘を大切に思ってくれているに違いはなかった。どこか昭和初期の恋愛映画じみた台詞をてらいもなく口にするヤスヒロである。その彼が、娘の結婚に際し、「インドだろうが地の果てだろうが、どこへでも行く」という心理に達するのは、冷静に考えれば容易に予測できることだった。迂闊だった。


一方、ニューデリーの父、ロメイシュからは、毎日のように電話がかかってくるようになった。   最初は、ごく身近な親戚を集めて結婚式を挙げるということになっていたのだが、わたしの家族も来るのなら少々盛大に、というわけで、次の電話では結婚式の前夜、アルヴィンドの叔父夫妻が主催でカクテルパーティーを開いてくれると言うことを伝えられた。さらには、やはり親戚以外の人も呼ばねば、ということになり、結婚式の翌日には、ホテルでレセプション(披露宴)を開くことになった。つまり三日間にわたり、毎夜、なんらかのイベントが行われるらしい。


向こうの家族がやってくれるというのだから、わたしも口を挟む余地はない。丸ごとお任せすることにした。従って、ニューデリーに出発するまでにわたしが準備したことと言えば、ほとんどなにもなかった。披露宴に招待する人のリストを作る必要も、引き出物の準備をする必要もなく、もちろん衣裳合わせもない。サリーはあらかじめ、ウマとスジャータが選んでくれることになっていたし、中に着るブラウスだけ、ニューデリーに到着した日に採寸して「翌日仕上げ」してもらうという段取りになっていた。結婚式は裸足らしいから、靴を用意することもない。披露宴のときもサリーは丈が長いから、適当なサンダルでも履いていればいいようだしで、何かを新調する必要もなかった。


その頃から、わたしは友人らに、結婚することを話し始めた。ある日、友人の一人が言った。


「ねえねえ。婚約指輪はどうするの? 絶対ダイヤモンドがいいよ」


そしてダイヤモンドがいかにいいかということを、蕩々と説明してくれた。取り立てて婚約指輪のことなど考えていなかったのだが、不思議なもので「ダイヤモンドがいい」と力説されると、そんなものかしら、と思ってくる。こういうところは都合よく優柔不断なのだ。


反対の意見を聞いてみようと、婚約指輪をしていない友人に尋ねた。すると彼女も言うのだ。


「できるなら、買ってもらった方がいいよ。わたしが結婚したときは(別に指輪なんて!)って思ってたのよ。でもね、一度結婚すると、ほかにダイヤモンドなんて買ってもらうタイミング、あまりないでしょ。やっぱり、いいよ、ダイヤモンドは」


母サチコは、当然のことのように言った。


「婚約指輪? ミホ。せっかくだから、買ってもらいなさい」


せっかくも何も、そもそもアルヴィンドには、まったくそんなつもりはなかった。18歳までインドに暮らしていた彼は、渡米するまでバレンタインデーすら知らなかったのだから、婚約指輪のことなんて、多分、よくわかっていないはずだ。一方、わたしは「指輪」のことが気になり出すと、今度は指輪についてをリサーチをせずにはいられなくなった。


打ち合わせの帰りに五番街を歩き、ティファニーやカルティエなどの宝飾品店に立ち寄る。ダイヤモンドの品質やデザイン、値段などの基礎知識を得ようと雑誌などもチェックした。やがて自分の好みのが具体的になってきた。しかし高い。こんな高価なものを、思えば他人からプレゼントされたことなど今まで一度もないことに気付いて少々焦った。しかも、能動的にプレゼントされるのならまだしも、プレゼントさせようとしている。何だか気分が悪い。


よし。いざとなったら、自分で買おう。そう決めると罪悪感が和らいで、積極的にダイヤモンドに向き合えた。数日後、わたしは友人のホノカさんに電話を入れた。彼女は宝石関係のビジネスをしていて、ダイヤモンドについても詳しいから、アドバイスを仰ごうと思ったのだ。もちろん、ティファニーなどへ市場調査には行ったけれど、そこで買うつもりはなかった。ブランド名に拘らず、品質の高いものをできるだけリーズナブルに手に入れたいと考えたのだ。なにしろ、自分で買うことになるかもしれないのだから。


ホノカさんは、まず、婚約を祝福してくれ、そしてダイヤモンドについてはシビアに


「買うなら絶対1カラット以上がいいよ」


と言った。そしてさらに付け加えた。


「わたし、ダイヤモンドは卸値で買えるから、コーディネートしてあげられるよ」と。卸値。なんてすてきな響き! その一言が、わたしの心をつかんだ。もう、あとにはひけない。

 

アルヴィンドがワシントンDCからニューヨークへ来たある土曜日の午後のこと。近所のカフェでブランチを食べながら、わたしはさりげなく話を切り出した。


「ねえ、知ってた? 婚約したら、指輪を女性に贈らなければいけないんだよ。それは愛の象徴だから、最も強い貴石であるダイヤモンドでなければいけないんだって」


「なにそれ。知らないよ、そんなこと。宝石会社のコマーシャルに乗せられているだけのことでしょ。インドではそんなこと、しないよ」


「あら、な〜に言っているの? アッパーイーストサイドのあなたのおじさまも、結婚指輪をしてたじゃない。結婚指輪があるということは、婚約指輪も存在するはずよ」

 

「そうかなあ。違うと思うけど。僕のお父さんはしてないよ、指輪」

 

「それでね。婚約指輪って言うのは、だいたい、月収の3倍が目安なんだって」

 「えーっ? 何だよそれ。誰が決めたんだよ、3倍だなんて。ばっかみたい。で、それって税引き前の話? それとも税引き後?」


給与の額面から3割近くが税金に引かれるから、税引き前か後かは重要なポイントなのだ。


「もちろん、税引き前に決まってるじゃない! あ、でも気にすることはないのよ。わたし、そんなに高価なものを欲しいなんて言ってないし。わたしたち今までずっと割り勘だったし、あなたに何かを買ってもらうのも、なんとなく気が引けるし……気にしないで」


そう言いつつも、ブランチをすませ、そこここで黄色や白のスイセンが揺れるセントラルパークを散歩したあと、なぜかわたしの足は五番街、57ストリートの「ティファニー」に向かっている。店の前に来て、いかにも偶然を装って言う。


「あ、ティファニー。ちょっとのぞいてみない?」


疑惑の目を向けるアルヴィンドの手をひっぱり、店内へ入る。週末のティファニーはいつもに増して込み合っている。春冷えの、外の寒さとは裏腹に、あちこちのカップルから立ち上る熱気が、店内に満ち満ちている。


わたしは数日前、ひとりで訪れた折に下見しておいた婚約指輪のコーナーへさりげなく人混みをかき分けながら向かう。そして、さも今しがた見つけて、その事実に驚嘆したかのような表情で、アルヴィンドの手をひっぱり、ショーケースの中を示す。まばゆい光を放ちながら、ずらりと並んだ大小さまざまなダイヤモンド。それらの中央に、小さな表示がある。


「Tiffany's Diamond. Engagement Ring. $950 to $1.1 million」

(ティファニー製ダイヤモンド 婚約指輪 約95〇ドルから1・1ミリオンドル)


1ドル百円として、9万5千円から1億1千万円である。アルヴィンドは目を皿のようにして数字に見入り、硬直している。


「なんなの、ワンミリオンって。指輪にワンミリオン・ダラー?」


驚きを隠しきれず、わたしに耳打ちする。そして次の瞬間、冷静を装ってまわりを見回す。若いカップルが、大粒のダイヤを試している姿を見て、急に競争心を燃やし初めている様子。予想通りの反応だ。


「ねえ、あの男、ぜんぜん冴えない感じなのに、あんなダイヤ買えるのかな? あっ、あそこにいる日本人のカップルなんて、大学生みたいだよ。彼らも買うのかな? 信じられないな」


アルヴィンドは、急に喉が渇いたと言って、外に出るや、ベンダー(屋台)でボトル入りの水を買い、喉を潤した。ともかくは、アルヴィンドの脳裏に「婚約指輪はダイヤモンド」という刷り込みがなされたことは、間違いないなかった。第一関門、突破である。


それからというもの、わたしは折を見ては、ミッドタウンにあるダイヤモンド街を訪れるようになった。47ストリート、五番街と六番街の間の1ブロックは、「ダイヤモンド・ディストリクト」と呼ばれ、ユダヤ人を中心とした宝石商たちの店舗がぎっしりと軒を連ねている。ユダヤ人以外にも、中国、コリアン、ロシアなど他国の商人たちも見られる。


ショーウインドーにきらめく、素人目には海のものとも山のものともつかない宝石の数々。ダイヤモンドの石そのものは、ホノカさんに相談して取り寄せてもらうつもりだったが、台座となるプラチナのリングは、自分の好みのものを見つけださなければならない。普段から身につけられ、月日がたっても飽きがこないデザインはないかと、ひたすらに目を走らせる。


一旦、自分で買う覚悟はしていたものの、だからって、本当に婚約指輪を自分で買うのは洒落にならない。だいたい、自分で買ったらそれは単なる「指輪」であって、「婚約指輪」ではなくなってしまう。わたしは熟考の末、どうしてもダイヤモンドの指輪が欲しいのだと、アルヴィンドにしおらしく、しかし明確に主張した。そして当時の自分たちの身の丈に合った最大限の予算を彼に提示した。「卸値」の件を伝えたら、彼は喜んで、いやしぶしぶと納得した。

 

ホノカさんから仕上がりの指輪を受け取った翌日の土曜日。週末を一緒に過ごすためDCから戻ってきたアルヴィンドに、「お祝いの件」と言いながら、指輪が入った紙袋をさりげなく渡した。アルヴィンドも、わたしが前日、ブツを受け取ることは知っていて、受け渡しイベントを決行するべく、日曜のブランチとディナー、とりあえず両方にレストランの予約をいれてくれていたのだ。


「お祝いは昼と夜のどっちがいい?」


夜の方がロマンティックだとは思ったが、一刻も早く受け取りたいわたしは、すかさず「ランチ!」と答える。アルヴィンドが連れていってくれたのは、アッパーウエストサイドのセントラルパーク近くにある「カフェ・デ・アーティステ」という、上品な高級フランス料理店だった。


まずはほどよく冷えたシャンパーンで乾杯する。そのシャンパーンの色が、昨日、ネイルサロン塗ってもらったマニキュアの色と同じであることに気づいて、ささやかに感動する。


前菜に生のオイスターを食べたあと、ロブスターサラダにポトフをオーダーする。ポトフは鍋ごとテーブルに供され、テーブルでウエイターからサーブしてもらう。柔らかく煮込まれた牛肉、それに各種野菜とたっぷりの具。コンソメスープもとても上品な味で、何もかも美味である。


食後は甘みを抑えたホイップクリームがたっぷりのアップルパイに、ストロベリーやブルーベリー、クランベリーなど、ベリー類で彩られたフルーツプレートを2人で分ける。さらには、食後酒にポートワインを味わい、至福のブランチだった。


食事を終え、コーヒーを飲んでいるときのこと。アルヴィンドは、テーブルの下でごそごそとしたあと、指輪を取り出した。緊張した笑顔でわたしの左手を取り、薬指にそっとはめて言った。


「ミホ。結婚してください」


こんな小さな石なのに、しかも、受け取ることを予想していたのに、この上なくうれしかった。午後の街を歩きながら、わたしは何度も指輪を光に翳す。太陽の光を受けて、七色に光る石。


結婚を決めるまでのプロセスは、思い出すも苦々しい口論の連続だったが、こうしてお互い腹をくくった今、あの争いはなんだったのだろうとさえ思う。この日を、二人の中で「公式婚約記念日」と決め、思い出の中に刻印することに決めた。