■東京:会社員、フリーランス時代/1988〜1996 ■
やがて卒業式の春。式典を終えたわたしたち卒業生は、袴や振り袖、ドレスなど、思い思いの華やかな服装に着替え、謝恩会の会場に集まっていた。4年間の歳月を噛みしめる1方で、社会人としての第一歩を踏み出す不安と期待とが、わたしたちを一段と饒舌にさせていた。多くの友人たちが教職に就き、それ以外の友人も、主に福岡市での就職が決まっていた。
やがて謝恩会もお開きとなり、しばらく会うことはないだろう友人たちと別れを惜しんでいたときのことだ。わたしが所属していたバスケットボール同好会の顧問だったY先生が、わたしの方へ近寄ってきた。
「サカタさん。君は就職、どこに決まったんだ?」
わたしはありのままの事情を説明した。するとY先生は驚き呆れた表情に変わった。
「それでご両親は、何ておっしゃってるんだ?」
両親には家族会議を重ねた末に、了解を得た旨を簡潔に話す。
「信じられないな、君。そりゃあ、甘いよ」
甘いと言われても、今更、どうすることもできない。ともかくは上京するしかないのだ。
その翌日、Y先生からわたしの自宅に電話がかかってきた。東京でフリーランスのライターをしている旧友がいる。彼女が出入りしている編集プロダクションが人材を募集しているようだ。海外旅行のガイドブックなどを作っている会社らしい。待遇その他はよくわからないが、アルバイトをするよりはいいだろう。そこを訪ねてみたらどうだ……。
受話器を握りしめながら、Y先生の声がまるで運命を告げる重大な知らせのように、深く、強く、響いた。「海外旅行のガイドブックなどを作っている会社」という一言に、わたしの心は高揚した。それは願ってもいなかった仕事だった。
(仕事で海外に出られるかもしれない!)
そう思うと、飛び上がりたくなるほどうれしかった。
Y先生の計らいは、つくづくありがたいことだった。卒業式の1週間後に上京したわたしは、先生から紹介されたその小さな編集プロダクションを訪れ、その場で採用が決まり、その数日後から勤務し始めた。
就職が決まって「飛び上がるほどうれしかった」気持ちは、しかし出勤の数日後にはすっかり打ち砕かれていた。信じがたいほどの長時間労働と、信じがたいほどの給料の安さ。世間の何ひとつをわかっていなかったわたしにとっては、いちいちが困惑の種だった。自分を田舎者など卑下する気持ちはさらさらなかったが、周囲の反応は違った。加えて、東京の人混みと喧騒には辟易し、心身共に消耗する日々だった。何もかもが覚束なく、不透明で、焦燥感ばかりが無闇に沸き起こった。
<あくまでも、自分はここで修業をしているのだ> そう自分に言い聞かせることで精一杯だった。
入社まもないころから、関東近辺の取材に出された。人手が少なく、教育してくれる人はいないから、全てが見よう見まねである。同行する外部のカメラマンにアドヴァイスをしてもらうこともあった。わからないことばかりで恥をかく日々だったが、それは同時にいい訓練になった。しかし、温泉取材に際して、先輩編集者からモデルもやるよう命じられたときには、さすがに動揺した。
「撮影の時は身体にバスタオルを巻いちゃ駄目よ、不自然だから。小さいタオルを使うんだよ。恥ずかしがってる場合じゃないんだからね」
わたしは愕然としながらも、先輩の命令に背けなかった。モデルでもないのに、手ぬぐい一枚の姿でカメラマンの前に現れ、写真に納まるなんて。「いやです」と断る勇気もなく、不条理を飲み込んだ。
しかし実際のところ、その一部始終に一番驚いていたのは、わたしでもカメラマンでもない、取材先の温泉宿の女将だった。それまで宿について質問をしてはメモを取っていた色気もくそもない編集者が、突然服を脱ぎ、眼鏡をはずし、モデルになるのだから驚いて当然だろう。
だから挙げ句の果てに、仕上がった写真を見た先輩から、
「サカちゃん、二の腕が太い!」
と言われたときには、ちゃぶ台ならぬ事務机をひっくり返したくなる衝動に駆られた。
このように、社会人の第一歩は、デスクワークも取材も何もかも、まさに仕事をしながら学ぶ日々だった。休日出勤も多く、たまの休みには死んだように眠りこけた。しかしそれは、何もわたしに限ったことではない。同じ会社に勤める同僚はもちろん、印刷会社の営業やデザイナー、ライターなど、周囲の人々は同じように、過酷な労働をこなしていた。社会の厳しさが身に染みた。
入社して半年を過ぎた頃には、念願だった海外取材にも出してもらえるようになった。数年前、カリフォルニアの空の下で願った思いは、こうして実現した。取材中は同僚が倒れ、数日起き上がれなくなるなどのトラブルに見舞われ、その分、朝晩下調べと取材とで、毎日数時間しか寝ない日が続く過酷なものだった。
海外へ出られる喜びに浸る余裕もなく、次から次へとわき出す仕事と、心身の著しい疲労、経済的な困窮。心中を渦巻く焦燥感は、日毎に強くなっていく。
そんな我が子の逼迫した様子を察した母が、保存のきく食料品をたっぷり詰め込んだ宅配便を送ってくれることもあった。箱の隅の方に、数枚の一万円札が入った封筒が入っていることもあった。うれしくて、情けなかった。
一方、世の中はバブル景気の真っ盛りだった。繁華街を歩く同世代の女性たちが、無闇にきらめいて見えた。通勤電車を見回せば、きれいに手入れされた長髪を、前髪のところだけくるりと鶏冠のように巻き上げ、ボディコンシャスなワンピースに身を包んでいる。まるでみな、示し合わせたように、肩に掛けているのはルイ・ヴィトンの茶色いハンドバッグ。
同じ時代、同じ都市に住んでいながら、自分だけが違う世界に漂っているような気がした。自分の周囲に、周りと自分とを隔てる薄い膜のようなものが張り巡らされているように思えた。
通勤は、片道に2時間ほどかかっていた。薄給では都内に住むことなどできず、千葉県の柏市に住んでいたのだ。深夜の列車は、酒に酔ったサラリーマンらが発する濁った匂いに包まれている。浮かれた時代の浮かれた酒宴は、毎晩のように繰り広げられていた。疲労困憊の身体で列車に飛び込んだ瞬間から、毛穴という毛穴に淀んだ空気が染み込み、自分が腐敗していくような強迫観念に襲われた。車窓に映るのは、蛍光灯に照らされた、白々とした自分の顔。打ちひしがれた顔。
車内で呼吸が苦しくなり、ホームに投げ出された途端、ゴミ箱の中に嘔吐して、ベンチにうずくまることも一度や二度ではなかった。迎えに来てくれたDに連れられ、救急病院で点滴を受けたことも何度かあった。しかし、どんなに生活や仕事が辛くても、この時期は一過性のものだから、乗り越えなければならないと思っていた。さもなくば、自分はどこにもたどりつけないだろう。
しかしやがて、わたしは自分の感情をコントロールできなくなっていった。唯一、愚痴をぶつけられる存在のDに、ことごとく八つ当たりをするようになった。
「そんなにボロボロになるまで働いて、その職場には、そんなに魅力があるわけ?」
まだ学生だったDは、わたしを心配するあまり、追求した。週末、遊びに出かけることも少なくなり、けんかの絶えない日々が続いた。わたしの慢性疲労はピークに達していた。さらには、自分が就職したら結婚しようと言ってくれた彼の言葉に耳を貸さなかった。Dは、わたしが海外取材に出ることも厭がっていた。仕事に熱中する女性を、多分彼は望んでいなかった。そんな彼と、たとえ好きだからと言って、すぐには結婚など考えられなかった。
やがて、堪忍袋の緒が切れたのだろう、Dに別れを告げられた。当たり前の結末だった。慣れない東京での社会人生活に戸惑うわたしを、Dは一言では言い尽くせぬほど支えてくれたのに、わたしは感謝を示すどころか、些細なことで彼を責め立て、傷つけるようなことを平気で口にした。
自業自得にも関わらず、彼を失うとわかったとき、わたしは自分でも驚くほどの衝撃を受けた。彼を翻意させようと、泣いて取り乱して懇願した。
「あなたと結婚する! ずっと一緒にいる! だから、お願いだから、別れないで!」
まるで演歌だ。しかし彼は言った。
「ミホは僕と結婚しないし、仕事も辞めない。そのことは、ミホが一番よくわかってるでしょ」
彼も、辛かったと思う。結局、彼が戻って来ることはなかった。彼と一緒に買った服、思い出の品、そんなすべてを彼に返した。そうしたら、部屋の中もタンスの中も、がらんとなって、尚更惨めになった。
体格が似ていた彼とわたしは、共有していた服も多かったから、それらを突き返したら、自分が着る服がなくなったのだ。
少しくらい取っておけばよかったとも思った。年の瀬が迫り、北風の冷たさが猛烈に身にしみた。悲しみと寂しさから解放されるために、仕事をした。もう、わたしの周りで、わたしに手を差し伸べてくれる人は誰もいなかった。自分と仕事。それだけだった。
25歳を迎える間際、すでに台湾、シンガポール、マレーシア、スペインなどを訪れ、国内海外のガイドブックを何冊か手がけていたわたしは、編集者としての基礎知識を、ひと通り身につけていた。今なら、もっと労働条件のいい会社に転職できるかもしれないと思った。
OL向けに出されていた就職情報誌「とらば〜ゆ」ではなく、主に男性社員を募集している求人情報ばかりが載っている「Be-ing」を購入した。男性に生まれればよかったとか、男性に負けたくないなどと思うことはなかったが、性別に関係なく、責任が与えられる仕事をしたいと思ったからだ。
何社か面接を受けた結果、小規模ながら大手企業の情報誌を制作する広告代理店に職を得た。入社の直後から、石油会社の広報誌を編集することになり、毎号の海外特集のため、頻繁に取材に出る月日が続いた。石油会社の広報誌だけに、「ドライブでの海外旅行」が取材の基軸だった。自分たちで取材先を決め、テーマを決め、ルートを決め、見知らぬ土地をドライブすることは非常に刺激的だった。
だが、許容量を大幅に上回る仕事量に、失敗することも少なくなかった。自律神経失調症になり、「救心」を飲んでいた時期もあった。
来る日も来る日も仕事のことばかり考える日々だったが、若さ故の体力と好奇心がわたしを支えていた。たまの休暇さえも、中国やモンゴルやインドネシアなどの一人旅に充てた。未知の世界に出会う喜びは、日ごろの過酷な労働を補ってあまりある魅力だった。
やがて27歳となったころ、わたしはフリーランスのライター、編集者として独立することを決めた。自分が会社という組織の中で働き続けることが不向きだと思ったことに加え、独立しないことには、自分の真の力量を試せないような気もした。果たして仕事は取れるだろうかと不安はあったが、動き始めてみると予想通り、会社員時代よりも徐々に収入が増えていった。
フリーランスになったばかりのとき、年に3カ月は休みを取って旅に出ようと決めた。だから残りの9カ月は、ひたすら休みなく働いた。3カ月も休むと、次の仕事が取れなくなるのではないだろうかとの不安もあったが、それはまた、そのとき考えればいいと思った。いざとなったらアルバイトを見つけよう。
1994年春。最初に迎えた3カ月は、ヨーロッパを旅した。取材で訪ねてもう一度行きたかったところ、子供のころから行ってみたいと思っていた、まだ見ぬところ……。パリを起点にヨーロッパを時計回りに鉄道で巡る、という大ざっぱな計画だけを携えて日本を発った。
パリで数日を過ごしたのちのある日、わたしはカフェでエスプレッソを飲みながら、地図と列車の時刻表と、そしてスケジュール帳を前にして、旅のプランを立てていた。行きたい町にマーカーで印をつけながら、ふと、茫漠とした気持ちに襲われた。
3カ月という月日が、途方もなく長いものに感じられたのだ。考えてみれば、物心ついたときから、たとえば幼稚園に入園したときから、すでに「何かに拘束される日々」が始まっていた。小学校、中学校、高校、大学。社会人になってからは、会社に、そして仕事に、常に拘束されてきた。もちろんそれは、誰もが置かれているごく当たり前の状況だ。しかしそれが、ひどく窮屈で息苦しいことに思われ、同時に、3カ月間の自由が際立って長く思われた。
西から東へ。フランクフルト、ベルリン、ライプツィヒ、ドレスデン、ワイマール、プラハ、ブタペスト……。東から西へ。ウィーン、ベネチア、フィレンツェ、アッシジ、ニース、マルセイユ、フィゲラス、バルセロナ……。
列車に揺られ、町から町を行く。安宿に荷をほどき、ノートとペン、そしてカメラを携えて、ふらふらと街を歩く。ランチは公園のベンチで鳩と一緒に。疲れたら街の教会でひと休み……。無数の駅を通過し、無数の石畳を歩き、無数の鳩とランチを分け合った。
緩く伸びきった時間の中で、わたしは好きなだけ、好きなことを考えた。過ぎた時間のこと、迎える時間のこと、自分を取り巻くあらゆること。移動の列車のなかで雲をぼんやりと眺めながら、街角のカフェで道行く人を眺めながら、あれこれと思いを巡らせた。もちろん、何も考えない時間も、たっぷりと過ごした。
一人で旅をするとき、そこには途方もない寂しさが横たわる。美しい景色を見るとき、おいしいものを食べるとき、心が動く瞬間を、誰かと分かち合いたいと思う。しかし、それができないときに心を貫いた寂しさもまた、思い返せば得難い感情だった。
翌年、29歳の春には、英語力を磨くため、3カ月間、英国南部の海辺の町の語学学校に留学した。ロンドンのような都会ではなく、静かな場所でしばらく過ごしたかったのだ。ある日のこと、いつものように授業を終え、ひとりで海辺を散歩した後、行きつけの小さなカフェに立ち寄った。スコーンを食べ、紅茶を飲みながら、夕陽が照りつける石畳を見つめていたとき、ふとひらめいた。
(来年は、ニューヨークへ行こう)
特に興味もなく、訪れたこともなかったニューヨークなのに、そのひらめきは日増しに現実味を帯び始めた。自分でも気が付かない因果関係が、そこにはあったのかもしれない。
そのころ、わたしは仕事を通して出会った年上の男性と付き合っていた。Dと別れてから一年あまり。ひたすら仕事が中心の生活を送っていた矢先の出会いだった。口べたで、世渡りのうまくない人だったけれど、内部に自分と共通の言葉をたくさんもっていることが、顔をあわせるたびに、強く鋭く伝わってきた。わたしたちは時を置かずして、互いに引かれ合ったのだった。
とはいえ、すでに彼は結婚をしていたし、深入りしたところで自分が苦しむだけである。そんなことは頭では十分わかっているのだが、だからといって衝動を制御できるような強い自制心を、わたしは備えていなかった。彼と過ごす時間は、ふたりで暗闇を漂流しているようだった。握りしめる彼の分厚くて温かな手だけが、寄る辺だった。
このころのわたしは、あまり睡眠をとっていなかった。深夜、仕事を終えた後、彼と会い、別れ、数時間の睡眠をとったあと、目を覚ます。恒常的な睡眠不足の中で、しかし精神は鮮やかに覚醒し、休みなく走り続けていた。
彼を切望するほどに、嫉妬や罪悪感という忌々しい衝動がまた、同時に起こった。恒常的に窮地に立たされているような、切迫した精神状態だった。このままではいけない。このままではいやだ。何とかしなきゃ。いつもそう思いながら断ち切れず、何年も、行きつ戻りつの関係が続いた。
一人で過ごす、日曜日の夕暮れどき。スーパーマーケットから古びたアパートへの帰り道。両手にスーパーマーケットのビニール袋をぶら下げ、息も詰まりそうなほどに美しく、西の空を染め抜く夕陽を眺めながら、わたしは滑り落ちていくような、とてつもない寂しさに襲われた。行く先の見えない漂流を、いつまで続けるつもりなのだろう。
わたしはどこへ行けばいいのだろう。東京が嫌いだとか好きだとか、仕事がいやだとかいいとかいうことではない。ただ、ここはわたしが住むべき場所ではない、ということだけは、理屈抜きに確信していた。東京では、言葉が通じているのに、まるで異邦に紛れ込んだかのような心細さを感じるのだ。
世界のどこかに、たとえ言葉が通じなくても、自分にしっくりくる場所があるに違いないと思った。その場所を、見つけなければ。
しかし、いったいそこは、どこなのだ?