英国の航空会社の便ながら、インド人に埋め尽くされた機内をじわじわと歩き、自分の席を確認する。込み入った機内は待合室より以上に、インド人たちの体臭が濃密に漂っていて、それでなくても嗅覚が敏感なわたしは、改めてこめかみに鋭い痛みを覚えた。しかし不思議なもので、飛行機が離陸し水平飛行に入り、フライトアテンダントたちが飲み物を配り始める頃には、鼻が慣れてしまったのか、匂いのことは気にならなくなっていた。
アルヴィンドは、小袋に入ったピーナッツをつまみにビールを飲みながら、座席に備え付けられた液晶画面に映し出される映画を熱心に見ている。すっかりとくつろいでいる様子だ。わたしもまたビールを飲みながら、インドのガイドブックを開く。ニューデリーの地図が載ったページを開き、アルヴィンドに実家の場所などを尋ね、印をつける。
<わたしはこれから、インドへ結婚しに行くのだ……>
ガイドブックを閉じて膝の上に置き、冷えきった、小さな窓に鼻先をくっつけるようにして、濃紺の中空に目を凝らす。そして、自分が初めて日本を離れた日のあたりへ、思いを馳せる。
■下関: 学生時代/1983〜1988 ■
自分の人生が最も大きく変わったのはいつか、と問われれば、わたしはすぐにも答えられる。大学2年生、十代最後の夏のことだ。
当時わたしは、実家のある福岡県福岡市に近い山口県下関市にある女子大の日本文学科に通っていた。進学を決めた当初、自由の利くアパート暮らし望んだが、寮生活をすることを両親から条件付けられた。学費や生活費を払ってもらう以上、わがままは言えないと素直に従った。
折しも時代は「女子大生ブーム」の全盛期だった。世の中は右肩上がりのバブルな好況に沸き、流行の雑誌をめくれば、高級ブランドのファッションに身を包んだ女子大生の写真が、紙面を賑わせていた。そんな世の趨勢とは裏腹に、わたしの大学生活は、極めて地味な環境のもとに幕を開けた。
JR下関駅から山陰本線で約30分。左手に日本海を望みながら走る列車は、市場へ魚介類の行商に行く漁村のおばさんたちが背負う「かんから」から漂ってくる、魚の匂いが染みついていた。海岸線から少しそれ、山間にさしかかってすぐのところにある小さな無人駅。梅ヶ峠(うめがとう)という柔らかな響きの名を持つその駅を下りたすぐの小高い丘の上に、わたしの通う大学があった。
わたしがその後、2年間暮らすことになった学生寮は、大学から田圃端の小道を歩いて5分ほどのところにあった。2階建ての、古びた建物が数棟並んでいる。
わたしが与えられたのは旧館と呼ばれる建物の四畳一間だった。外観は波打つ金属のトタンで覆われており、見るからにみすぼらしく簡素である。他に、本館、新館もあったが、いずれも似たり寄ったりだった。トイレ、風呂はもちろん共同。辛うじて湯が沸かせる程度の小さな台所がある。
入学式は4月だったにも関わらず、寮生たちはみな、申し合わせたかのように、トレーナーにジャージをはき、その上から赤や橙のどてら(綿入れ)を羽織っていた。その姿は暖房設備が整っていないことを物語っていた。門限は夜の7時。夜間の外出、あるいは外泊時には、地元の親を通して、寮の管理人に許可を申し出なければならない。そういう窮屈極まりない環境のもとで、わたしは十代最後の2年間を過ごすことになる。
一方、この辺鄙な田舎での学生生活は、学業に専念するには非常に好適だった。当時、高校の国語教師を目指していたわたしは、毎日まじめに講義を受けた。放課後は自分たちで作ったバスケットボール同好会で軽く汗を流し、寮に戻ってからは西日の当たる狭い部屋に寝転んで、さまざまな書物を読み耽る。しかし、そんな生活も半年を過ぎると退屈で耐え難いものになった。両親との約束通り4年間こんなところで暮らしていたら、若く溌剌とした精神が歪んでしまうに違いないとさえ思えた。
そんなあるとき、わたしは、子供の頃のぼんやりとした憧憬が、自分のなかに沸き上がってくるのを自覚した。それは(海外に行ってみたい)という衝動だった。ヨーロッパでも米国でも、どこでもいい。見たことのない、明らかに異質の世界を訪れたいと思った。
できることなら長い間、異国に身を置いてみたい。そしてそれは、成人しようとしている今だからこそ、実現できることのように思えた。そう思うと、いても立ってもいられなくなった。さっそく行き先を決めるための情報を集め、同時に資金を貯めるためのアルバイトも始めた。当時は1ドルが200円を超える時代で、旅費のすべてを捻出することができず、両親に援助を請うた。
海外に行く必要などないと渋る父と何度も衝突したが、最終的には、母が父を説得してくれた。母は専業主婦ではあったものの、わたしが幼いころから「これからの女性は仕事をもって自立するべき」という考えでわたしに接していた。だから、わたしが外の世界に興味を示し、踏み出そうとすることに対しても積極的だった。
結果、大学2年の夏、ロサンゼルス郊外の家庭で1カ月間のホームステイを経験するに至った。わたしは後になって、このときのことをこう書き記している。
海と山に抱かれた山陰の小さな大学。午後7時の門限に息を詰まらせたかごの鳥は、自ら扉を開け放ち、太平洋を飛び越え、一気にカリフォルニアへとはばたいた。1985年夏。九州近辺しか行き来したことのなかったわたしが、はじめて異国の地を踏んだ夏。
「日本は狭い。小さな国だ」と言われても、日本しか知らないわたしにとって、玄界灘は広く、阿蘇山は大きかった。しかし、アメリカで見た無辺の大地、雄大な山脈、巨大なピザ、飲みきれないほどたっぷり入ったジュース……目に飛び込んでくるそんなひとつひとつが、わたしの尺度をきれいさっぱり打ち砕いた。
大きな存在を知って、初めて小ささを知る。テレビや本では感じ得ない、実物大の衝撃。
わたしはこのとき、「尺度」という言葉の曖昧さを知った。大きい、小さいといった単純な尺度でさえ、普遍のものではない。新しきを見れば見るほどに、その基準は行ったり来たりする。
カリフォルニアの空の下で「このパスポートが切れる前に、わたしは絶対にまた旅をするんだ」と誓ったわたしの願いは実現し、卒業後に上京したわたしは、旅に関する本の編集を手がけることになる。異境での体験は、わたしの心をことごとく塗り替え、翻弄し続ける。そして、次なる旅への欲求を駆り立ててやまない……
このときの1カ月のホームステイは、わたしのそれまでの価値観を大きく揺さぶった。帰国後、一時的な興奮状態から醒めたわたしは、新たな混乱に襲われた。それまで目標としていた高校の国語教師になることが、急に自分にそぐわないと思い始めた。地元に帰って教鞭をとる自分の姿がどうしても想像できない。
<わたしは将来、何になればいいのだろう?>
考えてみたところで、具体的なイメージが浮かぶことはなかった。思えば当然のことである。当時のわたしは、世の中にどんな種類の職業があるのかすら、実はよくわかっていなかったのだ。ただ、いつかどこかにたどりつくと、おぼろげながらも思っていた。いつか、自分が真に大人になったら、たどりつく。
やがて大学4年の夏、進路を決めるべく就職活動の季節がやってきた。教師の道を断念したあとに来るべき職種が何なのかは、一年が過ぎた後も確信をもって見い出すことができなかった。文章を書くことが好きだったから、出版社がいいのではないかと想像してみたが、実際に出版社に就職したとして、自分が具体的にどんな仕事をすることになるのかは、就職読本を読んだところで見当がつかなかった。
わたしは地元の福岡ではなく、東京で就職活動をした。出版業界は東京が中心地だからということもあったが、当時のボーイフレンドだったDが東京に住んでいたことも理由だった。
就職活動は1カ月と決め、都内のウイークリーマンションを借りた。そこはかつて暮らした四畳の大学寮に勝るとも劣らぬほど狭く、東京の息苦しさを象徴しているようだった。
まだ学生で気楽な身分だったDに案内されて東京の街を巡りながら、その喧騒と華やいだ空気に気圧されると同時に、自分は本当に、この街で仕事を見つけ出し、働くことはできるのだろうか、という焦燥感にさいなまれた。約1カ月間、両手に余る数々の出版社を巡った。筆記試験を通過し、何とか面接にこぎ着けたところもあったが、わたしの通う大学を知る面接官はいない。
「地方から出てきて、もしも親御さんに何かあったときはどうするんですか」
と、耳を疑うような質問をする人もいた。試験会場に集まっているのは、誰が誰だか区別の付かないリクルートスーツに身を包んだ集団だった。女性は白いブラウスに濃紺のスーツ、肌色に近いストッキングによく磨かれた革靴、肩には黒いショルダーバッグを提げ、ビニールカバーのついた紙製の書類入れを小脇に抱えている。
わたしは、そのとってつけたような「リクルートファッション」に身を包むのがどうしてもいやだった。買おうという気持ちにすらならなかった。結局、以前購入していた黒地にベージュの細いストライプが入ったスーツで企業巡りを続けた。確かに典型的なリクルートスーツとは印象が違ったが、少なくともビジネスシーンにふさわしい、シンプルなデザインだと自分では思っていた。
「そんなとこで自己主張してどうする。下手に目立とうとすると失敗するぞ」
しかし、Dはわたしをいさめた。別に目立とうと思ったわけじゃない。自己主張とも違う。ただ、ユニフォームのように同じ服を着ることが奇妙なことに思えてならなかったのだ。スーツの色柄で採用を云々されるなど、ばかばかしいとも思った。お堅い業界ならまだしも、出版業界はもっと柔軟だとも思いこんでいた。しかし、毎日歩けども歩けども、明るい知らせは舞い込んでこなかった。
時同じくして就職活動をしている一流大学の学生たちの趨勢は、しかしわたしの身の上とは、かけ離れていた。当時の新卒採用は完全な売り手市場で、「青田買い」された優秀な学生の中には、内定を受けた会社から飲食接待を受けるばかりか、「高級車」や「海外旅行」という特典まで与えられる人もいた。企業は優秀な新卒者を確保することに躍起になり、度を超えた人材の争奪戦を繰り広げていた。多少の負け惜しみもあったが、わたしの目にはそれが尋常ならぬ事態に映った。
1カ月に亘る東京での就職活動は全敗に終わったが、それは同時に予想していたことでもあった。就職先が見つからなかったからといって、上京を断念するつもりもなかった。もしも就職先が見つからなかった場合は、アルバイトでもしながら職を探すつもりでいたのだ。
書店やコンビニエンスストアの店頭に並ぶ、電話帳ほどもありそうな分厚い求人誌は、当時の東京の好況を象徴しているようで、だから、その中から自分に適した仕事を見つけることは、そんなに難しいこととは思えなかった。無論、不安がないわけではなかったが、自分一人が生き延びる程度の稼ぎは、なんとか得られるだろうと信じていた。