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    <title>&#13;&#13;教会&#13;&#13;&#13;    2007年1月28日「1) 使徒たちの教えに専念している群れ」使徒行伝2:37-47&#13;    2007年2月 4 日「2) パンさきに専念している群れ」使徒行伝2:37-47&#13;    2007年2月11日「3) 交わりに専念している群れ」使徒行伝2:37-47&#13;    2007年2月25日「4) 祈りに専念している群れ」使徒行伝2:37-47&#13;    2007年3月 4 日「5) 分け与えることに専念している群れ」使徒行伝2:42-47 &amp;amp; 4:32-37&#13;    2007年3月11日「6) 賛美(礼拝)に専念している群れ」使徒行伝2:46 &amp;amp; 47b&#13;     2007年3月18日「7) 伝道に専念している群れ」使徒行伝2:37-47</title>
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      <title>今の今を生きる (4)&#13;ヤコブ書5:7-11</title>
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      <pubDate>Sun, 31 Jan 2010 11:00:07 -0800</pubDate>
      <description>(4) 我慢から忍耐へ&lt;br/&gt;わたしたちは子供の頃から‘我慢するのよ’と、教えられてきました。日系人二世も、一世の両親から同じ言葉を聞かされて来たことをよく伺います。我慢は、日本人の価値観を形成している基本的要素の一つかもしれません。我慢と似ている言葉で、忍耐という言葉を、わたしたちはよく使います。この我慢と忍耐という言葉は、辞書によると同じような意味で用いられていることがわかります。しかし聖書が忍耐という言葉を使う時、それは我慢とはかなり違う響きをもっています。主イエスの肉の兄弟で､エルサレム教会の指導者ヤコブは、忍耐という言葉をよく使っていますが、それは単なる我慢ではありません。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;｢だから、兄弟たちよ。主の来臨の時まで耐え忍びなさい。見よ，農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。あなたがたも、主の来臨が近づいているから、耐え忍びなさい。心を強くしていなさい｣(ヤコブ5:7-8)&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;ヤコブは、わたしたちが農夫の忍耐から学ぶように語っています。農夫は、地からの実りのために耐え忍んで待ちます。だが、それはただじっと我慢している待ち方ではありません。忍耐とは、何かどうしようもなく消極的に待つことではなく、待つその時を捕らえて、十分にその時を生きるということです。待たなければならない、その時に、しっかりと腰をすえて、今ここにいる、ということを味わっていくことです。前にも後ろにも動けず、ただ我慢だけが唯一出来ることのような時に、どうしても浮き腰になりやすいものです。そして、本当のこと、良きことは、いつか後で起きるかのようにふるまってしまうのです。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;先日、NHKの番組で有機栽培に徹している 金子 美登という農業を営む人を紹介していました。農薬をいっさい使わないために、使う場合とは全く違う配慮と努力が必要になります。農薬を使用しないということは、二つの問題が出て来るというのです。雑草と害虫です。化学肥料を使えば問題がないのに、使わないために数倍の忍耐と労力が要求されるのです。わたくしが印象に強く残ったのは、秋の実りを期待しながら､並々ならぬ忍耐力が要求されている金子さんが、じっとして消極的に待っているのでなく、雑草取りと害虫予防に心を注いでいる姿です。この動的姿勢が、忍耐と言ってよいでしょう。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;わたしたちは、しばしば我慢しなくてならないことに遭遇します。例えば、天候が悪く、飛行機が何時間も遅れて、ただじっと待たなければならない時があります。そのような状況の中で、わたしたちが出来る選択肢はあまりありません。いらいらして待つか、あきらめて待つか、或は、耐え忍ぶことを耐え忍ぶことが出来ず、何かをしながら時間をもてあそぶ、ということぐらいでしょう。しかし、忍耐は、我慢とは違います。不毛に見えるその時をしっかりと捕らえ、無駄に見えるその場にしっかり腰をすえ、宝はこの地面に隠されていると信じて、今の‘今’を生きる、これこそ、忍耐というものです。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;日語部牧師&lt;br/&gt;岩渕 宏安</description>
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      <title>今の今を生きる (3)&#13;出エジプト記2:23-3:12</title>
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      <pubDate>Sun, 24 Jan 2010 11:00:15 -0800</pubDate>
      <description>(3) ため息から祈りへ&lt;br/&gt;新年礼拝より、今の‘今’を生きておられる神と共に、生きることの大切さを教えられました。それは、容易く(1)過去に引き戻されたり、(2)将来に引き込まれたりしないために、どうしても意識的に自覚しなければならないことだからです。今朝は同じテーマのもとに、毎日わたしたちが経験する心配や失望や思案によって出てくる‘ため息’を、祈りに変えていく‘魔法’について学びたいと思います。与えられた聖書の箇所は、イスラエルの民がエジプトで奴隷として酷使されている所です。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;｢イスラエルの人々は、その苦役の務めのゆえにうめき、また叫んだが、その苦役のゆえの叫びは神に届いた。神は彼らのうめきを聞き、神はアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を覚え、神はイスラエルの人々を顧み、神は彼らをしろしめされた｣&lt;br/&gt;                                                                          (出エジプト2:23-25)&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;‘ため息’どころではありません。彼らは‘うめき、また叫び声’を上げているのです。&lt;br/&gt;しかし、そのうめきと叫びが、実は彼らのエジプト脱出の‘出発点’になっています。誰に向けられているかわからないようなうめきや叫びであっても､それが‘神に届いて’&lt;br/&gt;(2:23)いたのです。そこからイスラエル人の救いの出来事が出発していきました。&lt;br/&gt;これこそ、注目すべきことです。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;ですから、わたしたちは自分の‘ため息やうめき’を、何かよくないもののように考えたりしないで、それらをまず出発点とし、それらを神に聞いていただくということが、極めて大切であると言ってよろしいでしょう。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;｢信徒の友｣の一月号に、椎名麟三のことでよい記事が載っていました。わたくしも日頃から、椎名さんに共鳴させられている者の一人です。筆者が言っておられるように､彼はさまざま挫折体験をしながら虚無主義に陥っていきます。その彼がある日、自分とは比較にならい挫折経験をしているドストエフスキーの小説と出会います。この出会いが、椎名さんの人生を変え、小説家になることを決定させ、彼の文学の出発点となります。彼は、その新しい始まりを記しています。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;｢八方塞がりでもいい、うなることはできる、このうなりこそ文学なのだと考えて、&lt;br/&gt;私の生きる方向を決定した｣&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;クリスチャンになった椎名さんは、後になって自分の‘うなり声’は、実は神に向けられていたことがわかった、と言っています。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;ため息、うなり声、等々は、わたしたちが日々経験するごく自然のことです。しかし、それらが神に向けられていく時、あなたの祈りとなっていくのです。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;日語部牧師&lt;br/&gt;岩渕 宏安</description>
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      <title>今の今を生きる (2)&#13;マタイ14:22-33</title>
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      <pubDate>Sun, 10 Jan 2010 11:00:52 -0800</pubDate>
      <description>(2) 予知出来ない将来に引き込まれないように&lt;br/&gt;新年礼拝で教えられたことは、神がモーセにご自分の名を現したということでした。｢名は体を表わす｣とあるように､｢有って有る者｣と名乗った神は、その名に、神ご自身の本体(本性)が表わされているのです。永遠なる神は、時間を創造したお方、当然時間の外におり、過去も現在もなく、つねに永遠の‘今’に生きておられます。そしてその‘今’を生きている神が、時間の中に住み、左右されているわたしたちに、今の‘今’に生きるように招いておられるのです。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;モーセの時より凡そ1500年後、パレスチナの一角に一人の人物が現れました。30才まで大工の仕事をしていた彼は、十二人の弟子たちをつくり、どさ回りの説教者として、律法の教師ラビとして立ち上がります。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;ある日、そのイエスと呼ばれるラビは、弟子たちを先にガリラヤ湖の向こう岸、ゲネサレの地に送り、ご自分は祈るためにただ一人残ります。一方、弟子たちの方は、強い逆風のために湖上で悪戦苦闘していました。イエスは、夜明け前の頃、海の上を歩いて彼らに近づきます。弟子たちは、それが幽霊だと勘違いして、おじ惑います。その時、イエスは彼らに声をかけて、こう言われます。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;｢しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない｣(マタイ14:27)&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;イエスが､｢わたしである｣(I AM)と言われたことは、実は天地がひっくりかえるような驚き、いや、衝撃でした。なぜなら出エジプト記３章で､｢わたしは有る｣といわれたヤウエなる神と、同じことを言っておられるからです。こんなことは、人類の歴史の中で誰も言ったことはありません。又、言ってはならないことなのです。これこそ、イエスがユダヤ人によって十字架で殺された、究極の理由なのです。神と同一視した神冒涜を、堂々と宣言しているこの人物は、一体誰なのでしょうか。彼は嘘をついているのでもなく、気が狂っているのでもありません。イエスこそ、実に、モーセに現れた｢有って有る神｣なのです。イエスは神であり、神がイエスなのです。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;今の‘今’を生きておられるヤウエの神であるイエスは、時間と場所に束縛されているわたしたちにも、今の‘今’を生きるように招いて下さっています。なぜなら、わたしたちは予知出来ない将来に引き込まれて、いつも思い煩っては不安と心配に悩まされてしまうからです。永遠に今の‘今’を生きているイエスは、わたしたちにこう語りかけています。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;｢だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと&lt;br/&gt;言ってはならない。、、、まず神の国と神の義とをもとめなさい。&lt;br/&gt;、、、だから、あすのことを思いわずらうな｣(マタイ6:31-34)&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;これこそ、イエスが言われる｢今の‘今’を生きる｣生き方なのです。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;日語部牧師&lt;br/&gt;岩渕 宏安</description>
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      <title>今の今を生きる (1)&#13;出エジプト3:13-22</title>
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      <pubDate>Sun, 3 Jan 2010 11:00:12 -0800</pubDate>
      <description>　　　　　　　 (1) やり直しの効かない過去に引き戻されないように&lt;br/&gt;新しい年、2010年のはじめ、わたくしは二回のメッセージをとうして､‘今の今を生きるように’神は私たちを招いておられることを、お話したいと思います。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;かつてエジプトを離れることを余儀なくされ、そこを去ってミデヤンの地に移り住んでから40年が経ったある日のこと、神はモーセにホレブの山で、燃えるしばから語られます。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;｢わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを、つぶさに見、また追い使う者のゆえに彼らが叫ぶのを聞いた。わたしは彼らの苦しみを知っている。わたしは下って、彼らをエジプトびとの手から救い出し、、、さあ、わたしは、あなたをパロにつかわして、わたしの民、イスラエルの人々をエジプトから導きださせよう｣(3:7-10)&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;モーセは、勿論､｢わたしは、いったい何者でしょうか｣(3:11)と、即座に辞退します。その彼に、神は一言、こう言われます｡｢わたしは必ずあなたと共にいる。これが、わたしのあなたをつかわしたしるしである｣(3:12)､と。モーセは、つかさず神に尋ねます｡‘もし、イスラエル人が、何という名の神がお前をつかわしたのかと聞かれるならば、なんと答えましょうか｡‘その時、神はご自分の名前を、このように告げます。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;｢神はモーセに言われた｡‘わたしは、有って有る者｡’また言われた｡‘イスラエルの人々にこう言いなさい｡“わたしは有る”というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました”と｣(3:14)&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;クリスチャンが信じている神は､｢有って有る者｣(I AM WHO I AM)、或は､｢私は有る｣(I AM)という名のお方です。動詞が、現在形であることに注目してください。神&lt;br/&gt;には、過去もなく、未来もない‘時計の時間’の中にはおられない永遠のお方です。ですから、神の‘時間’は、つねに‘今’なのです。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;では、その‘今’の神は、何をわたしたちに望まれているのでしょうか。それは、神の名が｢わたしはある｣であるように、時間の中に住み、左右されているわたしたちにも､今の‘今’を生きるようにと、招いておられるのです。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;今を生きるということは、当たり前のように聞こえますが、実際は大変難しいものです。なぜなら、過去がわたしたちを絶えず悩ますからです。過去を思い出しては､ ‘このようにすべきであった、あのようにすべきであった’と、後悔と罪意識がわたしたちを責め立てます。これは、わたしたちが戦うべき敵です。この敵は、わたしたちをやり直しのきかない過去の後悔に引き戻そうと、つねに働きかけてきます。心して、自覚的に、今の‘今’を生きるように、今の‘今’を生きておられる神を、仰ぎ見つめていなければなりません。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;日語部牧師&lt;br/&gt;岩渕 宏安</description>
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      <title>光陰矢の如し&#13;詩篇90:1-10</title>
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      <pubDate>Sun, 27 Dec 2009 11:00:17 -0800</pubDate>
      <description>｢光陰矢の如し｣､これは月日の早く過ぎ行くことをたとえている表現です。2009年もまさしく、このことわざどおり、射られた弓矢のように、月日があっと言う間に過ぎ去って行きました。詩篇の記者も、人の生涯の短さを適切に言い表しています。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;｢われらの年の尽きるのは、ひと息のようです。・・・その過ぎゆくことは早く、&lt;br/&gt;われらは飛び去るのです｣(詩篇90:9-10) 口語訳&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;｢人生はため息のように消えうせます。・・・瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは&lt;br/&gt;飛び去ります｣(詩篇90:9-10) 新共同訳&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;一息のように飛び去っていく人生について、三つの事実が言えると思います。&lt;br/&gt;1. 過ぎ去った人生は、もとに戻らない。&lt;br/&gt;2. 人生は、限られており、終わりがある。&lt;br/&gt;3. 終わりが来たら、それ以上は手に入らない。　　　　　　　　　　　　　　&lt;br/&gt;終わりがある短い人生の現実を前にして、詩篇の記者は神に祈ります。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;｢われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください｣&lt;br/&gt;                                                                        (詩篇90:12) 口語訳&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;｢生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることが&lt;br/&gt;できますように｣(詩篇90:12) 新共同訳&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;詩篇の記者は、短く終わりのある人生の現実を1) 受け入れ、しかし､2) その現実を逆手にとって、そこから人生の知恵を得ることが出来るように祈っているのです。終わりのある人生を、逆手にとった知恵ある生き方とは、&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;	1.	人生には、終わりがあるからこそ、尊く価値があると気づかされます。あと数年と&lt;br/&gt;か、数ヶ月しか生きられない人々の話を聞く時、皆がそろって言うことは、残された年月がどんなに尊いものか、という証言です。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;2. 人生には、終わりがあるからこそ、身が引き締まり、真剣さが出て来るという体験です。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;3. 人生には、終わりがあるからこそ、目的がもてるという、視点の転換です。ちなみに、ギリシャ語の｢終わり｣は､‘テロス’という言葉で、目標、目的、完成という意味も含まれています。と言うことは､‘終わり’があるわたしたちの人生には、目的がなくてはならない、ということを警鐘しているのです。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;人生の終わりは、永遠です。人生の目的は、主なる神と顔と顔を合わせることです。人生の最後の一歩は、神のみ前に至る最初の一歩です。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;｢光陰矢の如し｣､これも、又、神の恵みでありましょう。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;日語部牧師&lt;br/&gt;岩渕 宏安</description>
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