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      <title>6. 救済論ー6) 子たる身分-A</title>
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      <pubDate>Sun, 24 Jan 2010 09:30:51 -0800</pubDate>
      <description>新生によって、神はわたしたちに新しい霊的命を与え、&lt;br/&gt;義認によって、神はわたしたちに神の前に立つことが出来る法的な権利を与え、&lt;br/&gt;神の子として下さることによって、わたくしたちを神の家族の一員にして下さる。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;A. その聖書的根拠&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;定義：子たる身分になるとは、わたしたちを神の家族のメンバーにして下さる神の行為である。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;ヨハネは、福音書の冒頭から神の子になるということを書き記しています。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;    ｢しかし、彼を受け入れた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである｣&lt;br/&gt;                                                                                                                                  (ヨハネ1:12)&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;パウロは、キリストを信じた者が神の子であり、子たる身分が授けられており、神の相続人でもあることを語っています。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;    ｢すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷&lt;br/&gt;    の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは‘アバ､&lt;br/&gt;    父よ’と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしし&lt;br/&gt;    てくださる。もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦&lt;br/&gt;    難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである｣(ローマ8:14-17)&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;さらに、もしわたしたちが神の子であるなら、キリスト者は神の家族の一員となります。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;    ｢あなたがたはみな、キリストにある信仰によって、神の子なのである。キリストに合うバプテスマを受け&lt;br/&gt;    たあなたがたは、皆キリストを着たのである。もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もな&lt;br/&gt;    く、男も女もない。あなたがたは皆、キリストにあって一つだからである。もしキリストのものであるな&lt;br/&gt;    ら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである｣(ガラテヤ3:26-29)&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;では、神の子供であることをどのように知り得るのでしょうか。パウロは、聖霊がわたしたちの心に、神の子であることを証ししてくださると語っています。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;    ｢しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生まれさせ、律法の下に生まれさせ、おつかわしになっ&lt;br/&gt;    た。それは、律法の下にある者をあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった。この&lt;br/&gt;    ように、あなたがたは神の子であるのだから、神はわたしたちの心の中に､‘アバ、父よ’と呼ぶ御子の霊を&lt;br/&gt;    送って下さったのである。したがって、あなたがたはもはや僕ではなく、子である。子である以上、また神&lt;br/&gt;    による相続人である｣(ガラテヤ4:4-7)&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;ヨハネはその手紙の中で、神の子の身分についての特権を語っています。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;    ｢わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんな大きな愛を父から賜わったことか、&lt;br/&gt;    よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである｣(1ヨハネ3:1)&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;新約聖書は、イエス・キリストが、わたしたちをご自分の兄弟と呼んでおられることを記しています。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;    ｢実に、きよめるかたも、きよめられる者たちも、皆ひとりのかたから出ている。&lt;br/&gt;    それゆえに主は、彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされない｣(ヘブル2:11)&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;    ｢ただ、わたしの兄弟たちの所に行って､‘わたしは、わたしの父またあなたがたの父で&lt;br/&gt;    あられるかたのみもとへ上って行く’と、彼らに伝えなさい｣(ヨハネ20:17)&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;    ｢神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定め&lt;br/&gt;    て下さった。それは、御子を多くの兄弟たちの中で長子とならせるためであった｣(ローマ8:29)&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;                                                                                             * * *&lt;br/&gt;&amp;lt;暗唱聖句&gt;&lt;br/&gt;                       ｢イエスは彼女に言われた｡‘ただ、わたしの兄弟たちの所に行って､’｣(ヨハネ20:17)&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;宿題：来週(1/31)は、全教会大掃除のため日曜学校はありません。&lt;br/&gt;再来週(2/7)は、つづけて｢子たる身分の特権｣について学びます。どういう特権があるか考えてください。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;日語部牧師&lt;br/&gt; 岩渕 宏安</description>
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      <title>6. 救済論ー5) 義認-D</title>
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      <pubDate>Sun, 6 Dec 2009 09:30:35 -0800</pubDate>
      <description>D. 人が義とされるのは、神の恵みによるのであって、人のいかなる功績によるのではありません。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;ローマ1:18-3:20において、人は律法の行為によっては、神の前に義とされることはないことを説明しています。パウロは、その後このように続けます。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;    ｢しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは､&lt;br/&gt;    イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこには&lt;br/&gt;    なんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼ら&lt;br/&gt;    は、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである｣&lt;br/&gt;                                                                                                               (ローマ3:21-24)&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;ここでパウロは、人が義とされるのは、神の恵みによることを明言しています。その恵みとは、神の“価しない好意/親切”(unmerited favor)を意味し、神の賜物にとって与えられていることも強調しています。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;    ｢あなたがたが救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。&lt;br/&gt;    それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。&lt;br/&gt;    決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためである｣(エペソ2:8-9)&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;    ｢これは、わたしたちが、キリストの恵みによって義とされ、永遠のいのちを望むことによって、&lt;br/&gt;    御国をつぐ者となるためである｣(テトス3:7)&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;人が義とされるのは、1) 価なしに与えられている神の恵みであり、2) 神の無償の賜物によることを、パウロは彼の手紙の中で力説しています。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;さて、ここで義とされて救われるのは、神の無償の恵みによるならば、パウロが‘信仰によって’義とされるという、その信仰をどのように考えたらよいのでしょうか。信仰がなくては義とされない、救われないとするならば、信仰自体が一つの‘功績’になるのではないでしょうか、という問題提起です。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;聖書は、人が生まれつき持っている信仰のゆえに、義とされるというようなことは決して言っていません。聖書は、信仰に何か価値があるようなことも決して　言っていません。聖書が言っているのは、人はわたしたちの信仰という‘手段/方法’によって、義とされると語っています。義とするのは、あくまでも神の恵みです。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;換言するならば、信仰は神の恵みを受け取る‘媒介’であり、神の賜物を受け取る‘手先’と言ってもよいと思います。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;信仰は、心の態度であり、心の姿勢です。それは義とされるのに、自分には頼ることを諦めて、キリストに向いて行くように‘仕向けて’くれるもの、これも又、神からの贈り物です。生来から人が持っている能力のようなものではなく、キリスト向かって、キリストの言葉を聞いている過程で、神から与えられる賜物です。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;    ｢したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである｣&lt;br/&gt;                                                                                                              (ローマ10:17)&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;信仰を、一つの徳、或は、働きのように考えてはなりません。それは、あくまで恵みを受け取る手段、方法、媒介、手先なのです。信仰を誇ったり、自慢したりするのは、本末転倒と言わなければなりません。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;                                                                                             * * *&lt;br/&gt;&amp;lt;暗唱聖句&gt;&lt;br/&gt;                        ｢それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。&lt;br/&gt;あなたがたがキリストにあるのは、神によるのである｣(1コリント1:29-30)&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;宿題：来週から､｢子たる身分を授けてくださる｣とか､｢神の子になる｣とか、｢神の家族の一員になる｣とか、&lt;br/&gt;         言われていることについて学びます。そのような聖句を、新約聖書から一つ見つけて下さい。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;日語部牧師&lt;br/&gt; 岩渕 宏安</description>
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      <title>6. 救済論ー5) 義認-C</title>
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      <pubDate>Sun, 29 Nov 2009 09:30:20 -0800</pubDate>
      <description>C. 神は、キリストの義をもって私たちを義と認めるだけでなく、実際にキリストの義を与えてくださる。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;二回にわたって、義認について学んだことは、使徒パウロが&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;    ｢働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである｣&lt;br/&gt;                                                                                                                        (ローマ3:5)&lt;br/&gt;と言っているように、わたしたちの道徳性や内面性のいかんにかかわらず、キリストに信頼することによって義とされる、という法的宣言でした。　　　　　　&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;ここに、ローマ・カソリック教会とプロテスタント教会との義認についての根本的違いがあります。トレント教会会議で、カソリック教会は、義認とは、&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;    ｢人の内なる(the inner man)聖化(sanctification)であり、更新(renewing)である｣&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;であると、公言しています。ということは、義とされるのに人は洗礼を受け、信仰を保ち続けていなくてはなりません。義認の最初は、洗礼を受けるサクラメントの行為が要求されるのです。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;しかし、もし、義とされていると確信するために、わたしたちが自分の内面性や　道徳性に依存しているとしたなら、罪のゆるしと裁きからの自由に対して、おそらく私たちはゆるがない確信は持つことは出来ないでしょう。わたしたちの確信は、全くキリストの義に頼る時に経験出来る、神の賜物なのです。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;    ｢このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、&lt;br/&gt;    わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている｣(ローマ5:1)&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;    ｢こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められない｣(ローマ8:1)&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;    ｢あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、&lt;br/&gt;    わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。それは､“誇る者は主を誇れ”&lt;br/&gt;    と書いてあるとうりである｣(1コリント1:30-31)&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;カソリック教会に対して、プロテスタント教会は、義認とは、まず法的宣言であり、わたしたちの内なる人の状態によって、義とされるのではないことを強調しています。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;とは言え法的宣言と共に、神はキリストに信頼する者に、キリストの義を注入しはじめるのです。つまり、&lt;br/&gt;キリストを信じる者を、義と認めるだけでなく、実際に義とすることも語っています。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;    ｢もし、ひとりの罪過によって、そのひとりをとおして死が支配するに至ったとすれば、まして、あふれる&lt;br/&gt;    ばかりの恵みと義の賜物とを受けている者たちは、ひとりのイエス・キリストをとおし、いのちにあって、&lt;br/&gt;    さらに力強く支配するはずではないか。このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定めら&lt;br/&gt;    れたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。すなわち、&lt;br/&gt;    ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が&lt;br/&gt;    義人とされるのである｣(ローマ5:17-19)&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;アダムの罪のせいで、すべての人にその罪が及んできていること(infused)と、キリストの義のせいで、すべての人に彼の義が及んできていることとが、ここで比較対照されて語られています。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;                                                                                             * * *&lt;br/&gt;&amp;lt;暗唱聖句&gt;&lt;br/&gt;｢今やキリストにある者は罪に定められることはない｣(ローマ8:1)&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;宿題：来週は、信仰によって義とされるなら、信仰も、いわゆる‘行為’､或は､‘功績’になるのではないか、&lt;br/&gt;         という問いを考えます。エペソ書2:1-10と、ヤコブ書２章を読んで来てください。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;日語部牧師&lt;br/&gt; 岩渕 宏安</description>
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      <title>6. 救済論ー5) 義認-B</title>
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      <pubDate>Sun, 22 Nov 2009 09:30:36 -0800</pubDate>
      <description>B. 義認は、神の法的宣言です。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;義認という言葉は、義とする宣言です。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;    ｢これを聞いた民衆は皆、また取税人たちも、ヨハネのバプテスマを受けて神の正しいことを認めた。&lt;br/&gt;    しかし、パリサイ人と律法学者たちは彼からバプテスマを受けないで、自分たちに対する神のみこころを&lt;br/&gt;    無にした｣(ルカ9:29-30)&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;勿論、民衆や取税人たちが、神を正しい(義と)者としたのではありません。義なる神を義と宣言したのです。しかし、パリサイ人たちは、それをしなかったのです。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;    ｢それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、&lt;br/&gt;    さらに、イエスを信ずる者を義とされるのである｣(ローマ3:26)&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;    ｢しかし、働きがなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである｣&lt;br/&gt;                                                                                                                                    (ローマ4:5)&lt;br/&gt;神は、人の行ないや功績にもとづいて義とするのではなく、信仰にもとづいて人を義とするのです。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;さらに義認は、裁きとの関係で対比されます。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;    ｢だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に&lt;br/&gt;    定めるのか。キリスト イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのために&lt;br/&gt;    とりなして下さるのである｣(ローマ8:33-34)&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;裁きの反対語が義認で、罪としない、さばかないという意味です。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;旧約聖書においても、義認という言葉と概念があります。例えば､モーセが民をさばいた時、語った言葉です｡&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;    ｢人と人との間に争い事があって、さばきを求めてきたならば、さばきびとはこれをさばいて、&lt;br/&gt;    正しい者を正しいとし、悪い者を悪いとしなければならない｣(申命記25:1)&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;ヨブは自分をさばく友人に、こう答えます。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;    ｢わたしは断じて、あなたがたを正しいとは認めない。わたしは死ぬまで、潔白を主張してやめない｣&lt;br/&gt;                                                                                                                        (ヨブ記27:5)&lt;br/&gt;箴言の著者も、次のように語っています。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;    ｢悪しき者を正しいとする者、正しい者を悪いとする者、この二つの者はともに主に憎まれる｣(箴言17:15)&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;イザヤも、声をそろえて語ります。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;    ｢わざわいなるかな、彼らは悪を呼んで善といい、善を呼んで悪といい、&lt;br/&gt;    暗きを光とし、光を暗らしとし、苦きを甘しとし、甘きを苦しとする。&lt;br/&gt;    、、、彼らはまいないによって悪しき者を義とし、義人からその義を奪う｣(イザヤ5:20､23)&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;新生や聖化は、神がわたしたちの内にして下さることです。しかし、義認は神がわたしたちに対してして下さることです。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;聖化は、外科医がするようなものです。それに対して、義認は、裁判官がする　ようなものです。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;                                                                                             * * *&lt;br/&gt;&amp;lt;暗唱聖句&gt;&lt;br/&gt;｢だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである｣&lt;br/&gt;　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　                     (ローマ8:33)&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;宿題：さらに、義認について掘り下げていきます。来週は、義認の二つの面を見ていきます。&lt;br/&gt;         ローマ4:1—5:21を、読んで来てください。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;日語部牧師&lt;br/&gt; 岩渕 宏安</description>
    </item>
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      <title>6. 救済論ー5) 義認-A</title>
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      <pubDate>Sun, 15 Nov 2009 09:30:33 -0800</pubDate>
      <description>A. 序と聖書的根拠&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;一言で、救いと言っても、それは深く広いものです。その深遠さと広大さを論理的にまとめ上げたものが、救済論です。今まで学んで来たものは、神の選びからはじまって、福音の招き、再生(新生)、回心(信仰と悔い改め)という順序でした。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;では、救われるというプロセスの中で、次に来るものはなんでしょうか。回心という信仰と悔い改めをした者に、神は応答しなければなりません。すなわち、罪の赦しを宣言しなければなりません。それは、神の律法との関係にあるわたしたち対する法的宣言で、罪が完全に赦され、もはや刑罰のもとにはいないというものでなくてはなりません。つまり、義認という教理です。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;義認を正しく理解することは、クリスチャン信仰全体を把握するのに極めて大切です。マルチン ルターが信仰によって義とされるという真理がわかった時、彼はクリスチャンとなり､福音の新しい発見によって心が満たされたのです｡&lt;br/&gt;宗教改革の主な課題は、信仰による議認についてローマ カソリック教会と論議したことです。この重要な教理は、過去のみならず、今日でも、さらに将来においても、確かなものとしていなくてはなりません。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;使徒パウロは、義認について彼の手紙に明白に書き記しています。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;    ｢そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、&lt;br/&gt;    義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである｣(ローマ8:30)&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;召すとは、すでに学んだように、福音が伝えられて招かれたことを意味しています。その中には、再生、回心(悔い改めと信仰)が含まれています。そして、次にくるのが、神ご自身の応答で、悔いし砕けし信じる者を、義と認めて下さるのです。｢召した者たちを更に義とし｣とは、まさしくそのことを言っているのです。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;パウロはさらに、義認は神がわたしたちの信仰に応えるものとして、信仰の後にやってくることを述べています。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;    ｢イエスを信じる者を義とされるのである｣(ローマ3:26)&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;    ｢人が義とされるのは、律法の行ないによるのでなく、信仰によりのである｣(ローマ3:28)&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;    ｢しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、&lt;br/&gt;    イエス キリストを信じる信仰による神の義であって、すべての人に与えられるものである｣(ローマ3:21-22)&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;    ｢このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのであるから、わたしたちの主イエス キリストにより、&lt;br/&gt;    神に対して平和を得ている｣(ローマ5:1)&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;    ｢人は義とされるのは律法の行いによるのではなく、キリストイエスを信じる信仰によることを認めて、&lt;br/&gt;    わたしたちもキリストイエスを信じたのである｣(ガラテヤ2:16)&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;このような聖書の言葉から、義認を次のように定義することが出来ます。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;義認とは、1) 神がわたしたちの罪を赦し、キリストの義をわたしたちのものとし，&lt;br/&gt;　　　　　2) 神の目の前に、義なる者として宣言する、神の法的行為である。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;                                                                                             * * *&lt;br/&gt;&amp;lt;暗唱聖句&gt;&lt;br/&gt;｢イエスを信じる者を義とされるのである｣(ローマ3:26)&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;宿題：次の数回は、上記の定義から義認について詳細に学びます。来週は、義認が法的な意味をもっていることに&lt;br/&gt;         焦点をあわせます。法的に義とするとは、どういうことでしょうか。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;日語部牧師&lt;br/&gt; 岩渕 宏安</description>
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